第三章 御嶽での一夜・後
池永 陽You ikenaga
麟太郎が律子(りつこ)を初めて見たのは、場末の小さなスナックのなかだった。
このとき律子は高校を出て二年目、まだ十九歳で初々しい盛りだった。
ちょうど沖縄で学会があった時期で、そのとき麟太郎は比嘉のところに数日間世話になった。世話になった二日目の夜、比嘉がこんなことをいった。
「おい麟太郎、いいところへ連れていってやろう。可愛(かわい)い子がいるからよ」
そういって連れていかれたのが、名護(なご)市の繁華街の裏通りにある、お世辞にもきれいとはいえないような『でいご』という名の小さなスナックだった。
なかに入ると沖縄特有の派手な装飾が、まず目に飛びこんできた。席はカウンターだけの細長い造りでテンポのゆるやかな島唄が流れ、このときは一人も客はいなかった。
「いらっしゃい、比嘉先生」
ママらしき四十代後半の化粧の濃い女性が二人を迎えいれ、すぐにオシボリと軟骨ソーキのお通しがカウンターに置かれた。
「よかった。二人もきてもらって、今夜はどういう加減か、お客はさっぱりで溜息ばっかりついてたところ」
ママらしき女性はこういって、ルージュで真赤になった口元を綻ばせた。
「いつもの水割で、よかったわよね」
といって、泡盛(アワモリ)の瓶を出して手際よく水割をつくり始め、とんとカウンターに二人分を置いた。
「じゃあまず、乾杯だ」
比嘉はこういって、景気よく麟太郎のグラスに自分のグラスをぶつけた。
互いにひとくち飲んだところで、
「こいつは東京の医大で俺と同期だった、真野(まの)麟太郎。たまたまこっちで学会があったので連れてきた」
簡単に麟太郎をママに紹介した。
「まっ、顔はごついけどイイ男。何だかとっても優しそうで食いつきたいかんじ」
大げさなことをいって、「よろしくね、麟ちゃん」と、また真赤な口元で笑った。
それから比嘉はママのほうを目顔でさし、
「こちらがこの店のママで、名前は屋名恭子(やなきょうこ)女史。見た通りのざっくばらんな性格で、年のほうは確か――」
といってから、しまったという顔をした。
「比嘉先生。女性の年を軽々しくいうもんじゃありません。といっても私は永遠の二十五歳だから、痛くも痒(かい)くもないけどね」
恭子は大きなうなずきを繰り返し、
「苦労をしすぎて、こんな老け顔にね。だからお客は私のことを陰で、青春残酷物語といってるわ」
嘘か本当かわからないことを、いかにも嬉しそうにいった。
「そして、こっちが」
と比嘉は出入口に近いカウンターの脇のほうに手を向けた。娘が一人立っていた。
どきっとした。それまで麟太郎は、そこに人がいるのにまったく気づかなかった。店のなかにすっぽりと同化してしまって、この娘は気配をまるで感じさせなかった。
「こいつは比嘉律子。二年前に高校を卒業してから普通の仕事は自分には向かないといって、この怪しげな店に居ついてしまった変り種で、俺の姪(めい)だ」
笑いながら比嘉はいった。
「親戚中の持て余し者の、比嘉律子です。よろしく、おじさん」
律子はぼそっとした声でこういい、ぺこりと頭を下げた。
そのとたん、気配を感じさせなかったこの娘が浮き出して見えた。目立った。不思議だったが目に焼きついた。
- プロフィール
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池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。