よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第三章 御嶽での一夜・後

池永 陽You ikenaga

 そして次の日の十時頃。
 約束通り律子は医院にやってきた。
 律子は自転車に跨(またが)っていた。
 荷台にはリュックサックがふたつ、くくりつけられていた。
「行くよ、麟太郎」
 玄関で待っていた麟太郎に、律子は大きな声をあげる。
「行くって、どこへ」
 怪訝(けげん)な面持ちで訊く麟太郎に、
「大自然の声を聞くために、そして神様の姿を垣間見るために、神聖な御嶽(うたき)まで」
 怒鳴るように律子はいった。
 沖縄でいう御嶽とは、確か神様が降臨する場所……と麟太郎が、あれこれ考えを巡らせていると、
「ほら、さっさと自転車を持ってきて……裏の物置きの横にあるはずだから」
 勝手知ったる他人の家とばかりに、律子は麟太郎に指示する。
 いわれた通り、麟太郎は自転車を引いてきて律子の前に行き、声をあげる。
「その御嶽というのは、いったいどこにあるんだ」
「ヤンバル――今は廃村になっているけど、昔私たちが住んでいた所。そのすぐ近くにあるから。そこで神様が降りてくるのを、ひたすら待つの」
 ヤンバルとは沖縄の北部に広がる山岳地域の通称で、地域の様子をよく知っている者しか踏みこむことのできない、原始の様相をそのまま残した密林地帯だった。
 律子は荷台のリュックサックのひとつを麟太郎の自転車に手際よく、くくりつけ、
「じゃあ、出発」
 こう叫んで走り始める律子の格好は、やっぱり白い木綿のシャツに洗いざらしのブルージーンズだった。
 自転車をこぎつづけて約二時間、麟太郎と律子は、かつて比嘉たちが住んでいたという今は廃村になった集落にたどり着いた。
 崩れかけた十数軒の藁(わら)屋根の民家が、ひっそりと立っていた。
 周りは雑草が生い茂り、なかには背丈ほど伸びきったものもあって、長年にわたって人が踏みこんだ様子がないことを如実に物語っていた。何もかもが朽ち枯れていた。だが汚れは感じられなかった。においもなかった。すべてがきちんと、枠のなかに納まっている。そんな気がした。
「ここで、弁当にしよう」
 律子はそういって、自転車の荷台からリュックを外し、麟太郎にも降ろすように命じた。けっこう重いリュックだった。
 律子は自分のリュックのなかから水筒二本と紙包みをふたつ取り出し、それぞれひとつを麟太郎に渡した。紙包みを開いてみると中身は握り飯と漬物だった。
 麟太郎と律子は崩れた家屋の軒先に腰をおろし、水筒の水を貪り飲んだ。麟太郎も律子も汗まみれで喉はカラカラだった。
 隣に座って水を飲んでいる律子の横顔を麟太郎は、ちらっと窺い見る。汗に濡れた浅黒くて細い喉が生き物のように動いていた。
 妙に色っぽく見えた。
 気配を感じたのか、律子が麟太郎を見た。
 目がまともに合った。
 どぎまぎする麟太郎に、ふわっと律子は笑っただけで何もいわなかった。それから二人は黙々と弁当を食べた。
「これは律ちゃんが、つくったのか」
 頬張りながら麟太郎がいうと、
「そう、まずい?」
 妙な訊き方をしてきた。
「いや、充分にうまいよ。塩加減が最高で絶品だと思うよ」
 正直な気持だった。握り飯はうまかった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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