よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第三章 御嶽での一夜・後

池永 陽You ikenaga

「お腹が空いてるから」
 ぼそっと律子はいう。
「そればっかりじゃないさ。律ちゃんがつくった握り飯だから……だから、余計にうまいのかもしれない」
 いってから、麟太郎は少し後悔した。いや恥ずかしかったというほうが正解かもしれない。何だか、少年のころに戻ったような気持だった。
「うふっ」と律子が笑った。
 笑いの意味がよくわからず、麟太郎はとまどった。
「なぜ、笑ったんだ」
 ぶっきらぼうな口調で訊いた。
「今、神様が二人の頭の上を通りすぎたから。うふっと笑いながら、楽しそうに足早に。だからね」
 訳のわからないことをいった。
 やっぱり、この娘はユタ……そう思うのがいちばん無難なような気がした。
「御嶽というのは、この近くなのか」
 気になったことを訊いてみると、
「ここから山道を歩いて三時間ほど。まだまだかかるから、頑張ってよ麟太郎」
 何でもないことのように、律子はいった。
「えっ、まだ三時間もかかるのか」
 驚いた声をあげる麟太郎に、
「そう。何たってジャングルのような山道だから、そう簡単には歩けない。昔は細い道がちゃんとつくってあったんだけど、村がなくなってからは手入れをする人が誰もいなくなってしまって。それでね」
 嚙(か)んで含めるように律子はいう。
「今日中に、ちゃんと帰ることはできるんだろうか」
 思わず早口になって訊いてみると、
「御嶽のそばには御願所(ウガンジュ)といって小さな小屋があるから。いざとなったら、そこに泊れば何とでもなるわ」
 これも、何でもない調子で律子はいった。
 律子と一緒に小屋で泊る……。
 麟太郎の胸が、ざわっと騒いだ。
 いざとなったらと律子はいった。
 麟太郎は、ゆっくりと空を仰いだ。
 昼前は晴れていた空が曇っていた。
 もし雨が降ってきたら。
 体が震えるのを麟太郎は、わずかに感じた……。
 麟太郎は潤一と麻世にここまで話をして、ふいに言葉を切った。
 ゆっくりと二人の顔を見た。
「何だよ親父。そんなところで話すのをやめて。それからどんな展開になったのか。はっきりしろよ」
 先をつづけるように潤一が促した。
 麻世は無言で麟太郎の顔を見ている。
「そうだな。話さないといけねえな。しかし、一息入れさせてくれ」
 麟太郎は掠(かす)れた声を出し、
「微妙なんだ、極めて微妙なんだ」
 と、ぼそりといった。

(つづく)

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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