よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第四章 事実は藪のなか・前

池永 陽You ikenaga

 久しぶりに『田園』に行くと、客はまあまあ入っていた。
 幸いというか何というか、風鈴屋の徳三(とくぞう)の顔も今夜は見当たらないようだ。ほっと吐息をもらすと、すぐに夏希(なつき)がやってきてべたっと体をくっつけた。
「お帰りなさい、大先生(おおせんせい)」
 気になることを口にした。
 嫌な予感がして、夏希の顔を凝視するように見ると、
「あらっ、旅行カバンを手にして、どこか遠くへ行ってきたんでしょ。いったいどこへ行ってきたんですか」
 見てきたようなことを耳元でいうが、おそらく町内の誰かが旅行仕度で家を出ていく麟太郎(りんたろう)の姿を見て、それが噂となってこの界隈(かいわい)に広がり、夏希の耳に……。
「遠くったって、俺は土日の二日間、家を空けただけで、そんなに遠くへは……」
 ぼそぼそと独り言のように、麟太郎は口に出す。
「今の世の中、二日もあれば、どこへでも行ってこられるんじゃないですか。北海道だろうが沖縄だろうが」
 また、どきっとするようなことを夏希は口にした。
「そんな、北海道や沖縄なんぞ、俺はそんなところへは」
 慌てて麟太郎が声をあげると、
「あらっ、大先生、とぼけるんですか。何だか怪しい、すごく怪しい。となると、やっぱりあの件ですね。旅行の目的は」
 くっつけた体の脇腹を、夏希は肘でどんと突いた。けっこう強い力だ。
「あの件って、何だよ」
 これも慌てて声を出すと、
「あの件は、あの件。大先生の隠し子の件ですよ。ああ、憎らしい」
 言葉とは裏腹に、夏希の口調はけっこう楽しそうに麟太郎には聞こえる。
「そんなことは、俺は――」
 といったとたん、
「私の推測では、沖縄――大先生、例の件で沖縄に行ってきたんでしょ」
 勝ち誇ったような声を夏希はあげた。
「えっ……」
 唖然(あぜん)とした。何を根拠に沖縄という具体的な地名が出てきたのか。当然のことに麟太郎には見当もつかない。困惑の表情を浮べていると、べたっとくっついていた夏希がさっと体を離した。入口のほうに駆けるようにして向かった。
「いらっしゃい、親方。毎度ありがとうございます」
 嬉(うれ)しさ一杯のこんな声が後ろから聞こえ、振り向いてみると店に入ってきたのは風鈴屋の徳三だった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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