よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第四章 事実は藪のなか・後

池永 陽You ikenaga

 午前中――といってもすでに十二時は回っているが、最後の患者は風鈴屋の徳三(とくぞう)の弟子の高史(たかし)だった。
「どうした、高史君。また、前と同様、恋煩いにでもなったのか」
 診察室のイスに座る高史に冗談っぽく声をかけると、意外にも「はい」という返事がすぐに返ってきて麟太郎(りんたろう)は呆気(あっけ)にとられた表情を浮べる。
「はいって……確か知沙(ちさ)さんとはうまくいっていると、先日の花見のときにはいってたんじゃなかったかな」
「あっ、僕と知沙は、うまくいってますから大丈夫です」
 恥ずかしそうではあったが、慌てて声をあげた。
「なるほど、うまくいっていそうだな。以前は知沙さんといっていたのが、今は呼びすての間柄にまでなったか」
 ちょっと羨ましそうにいうと、
「それは、知沙さんのほうがそう呼んでほしいっていうので、それで……」
 高史は両耳を真赤に染めた。
「あの、知沙さんのほうがなあ」
 麟太郎は独り言のように口に出し、
「となると、ひょっとして、恋煩いというのは」
 唖然(あぜん)とした声を今度はあげた。
「はい。大先生(おおせんせい)の想像通り、うちの親方のほうが……それで体のほうはどこも悪くないんですけど、僕はこうしてここへ」
 蚊の鳴くような声で高史はいって、うつむいた。
 高史の話によると――。
 外では憎まれ口を叩(たた)き、元気一杯の様子を見せている徳三だったが、いざ家に帰ると体中から力が抜けたようにおとなしくなり、作業台を前にして大きな溜息(ためいき)を何度もつきながら仕事をしているという。それに昨日はこんなことを口にした。
「もし俺が再婚することになったら、相手はこの家に入ることになる。そのときは、その人のことを、お内儀(かみ)さんと丁寧に呼ぶんだぞ。わかったな、高史」
 こういって大きく何度も、うなずいていたという。
 どうやら徳三は夏希(なつき)に本気で惚(ほ)れて、まさかとは思ったが結婚という事態も本気で考えているようだ。
「お内儀さんなあ……」
 ぼそっと口に出す麟太郎に、
「町内の噂(うわさ)では、親方は『田園』の夏希さんに参ってしまって、骨抜きにされているようだというんですけど、それは事実なんですか。大先生に訊(き)けば本当のことがわかると思って、今日ここへきたんですが」
 心配そうな口振りで高史はいった。
「それは――」
 麟太郎は一瞬口ごもってから、
「おそらく事実だ。だが、相手の夏希さんがその気になってくれるかどうかは、俺には何ともいえねえ。何といっても、夏希さんは……」
 ここまでいって、口を閉ざした。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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