よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第五章 三角関係・前

池永 陽You ikenaga

 台所から、いい匂いが漂ってくる。
 これは多分、すき焼の匂いだ。
「親父、どうやら今夜はご馳走(ちそう)に、ありつけそうだな」
 三十分ほど前にやってきて、台所の様子を窺(うかが)っていた潤一(じゅんいち)が嬉(うれ)しそうにいう。
「そうだな。すき焼なら大きな失敗は考えられねえから、何とかまともなものが食べられるんじゃないのか」
 機嫌よく麟太郎(りんたろう)が口にしたところで、麻世(まよ)が卓上コンロを持ってきてテーブルの上に置いた。
「今日は順調にいってるから、ちゃんとしたものが食べられると思う。すぐに鍋を持ってくるから火をつけておいて」
 機嫌よく麻世もいい、台所に戻って湯気のあがる鍋を持ってきてコンロの上に置いた。具と一緒に、すでに肉も鍋のなかに入っていて、あとは食べるだけの状態だ。
「肉はまだ、沢山あるから、二人ともどんどん食べて」
 景気のいい麻世の声を聞きながら、麟太郎と潤一は小鉢のなかに生卵を割り入れ、熱々の肉をすくっていれる。そのとたん「えっ」と潤一が不審げな声をあげた。
「麻世ちゃん、これって牛肉なのか」
 視線が鉄鍋のなかの肉に移る。
 麟太郎の目も鉄鍋のなかを凝視する。
 牛肉より色が薄い……これは。
「牛肉じゃないよ、豚肉だよ」
 何でもないことのように、麻世はいった。
「豚肉って……普通、すき焼は牛肉でするもんだと思うけど」
 ぼそっと口にする潤一に、
「えっ、そうなのか。私のうちは小さいころから、すき焼っていったら豚肉だったけど。そうか、牛肉でする家もあるんだ。今までそういうことは、まったく知らなかった」
 きょとんとした表情を浮べる麻世の顔から麟太郎は視線をはずし、また、とんでもないことをいわなければいいがと、潤一を見ると……。
「それは麻世ちゃん、牛肉より豚肉のほうが断然安いから――」
 やっぱりいった。
 が、さすがに自分のいった言葉の意味に気がついたらしく、潤一は慌てて口をつぐむが麻世の表情は硬くなっている。
「牛肉だろうが豚肉だろうが、すき焼に変りはない。地方によって、家庭によって肉や具のあれこれが違ってくるのは当然のことで、何ら変ったことじゃねえ」
 麟太郎は二人の顔を交互に見て、
「せっかくの、うまそうなすき焼。有難くいただこうじゃねえか」
 麟太郎は豚肉を溶き卵につけて、さっさと口に運ぶ。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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