よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第六章 隔離施設のなかで・前

池永 陽You ikenaga

 小声で訊(き)いてみると、
「大丈夫だよ、暴れるつもりはないから。私がやるのは、いつものアレだから」
 麻世も小声で答えてきた。
 アレか、アレなら麻世でも大丈夫だ。アレなら――妙な納得を麟太郎はする。
「おい、何をごちゃごちゃ喋(しゃべ)くってるんだ。力の勝負っていったい何だ。さっさといったらどうだ」
 焦(じ)れたような声を秀治は出した。
「腕相撲――」
 麻世が、よく通る声でいった。
 一瞬、周りが静かになった。
 次がどよめきと溜息(ためいき)だ。
 秀治はもちろん、店の客から恭子ママ、それに美咲と、店にきたばかりの海兵隊のエリックまでが呆(あき)れた顔で麻世を見ていた。比較的平静を保っているのは麟太郎だけだが――その麟太郎にしても。
 確かに麻世の腕相撲の強さは折紙つきだが、この頑丈な男を前にして……それに麻世は左利きなのだ。そのハンデを乗りこえることができるのか。
「正気か、姐ちゃん、女の細腕で俺のこの太い腕に勝てると思っているのか。それとも姐ちゃん。ひょっとして、あんた、単なる莫迦なのか」
 とまどいの声を当の秀治があげた。
「腕相撲は何も、ガタイでするわけじゃない。そこには技もあれば、コツもある。女だと思って舐(な)めてると、とんでもないことになるよ、兄さん」
 真面目くさった顔で麻世がいう。
「確かに技もあれば、コツもあるだろうけど。それは同じほどのガタイの持主同士が闘うときに発揮されるもので、これだけ体の大きさが違ってくると、そんなものは」
 首を捻(ひね)る秀治に、
「それとも、怖気(おじけ)づいて、シッポを巻いて逃げるつもりなのか、兄さん」
 挑発するように麻世はいった。
「莫迦いえ。こんな好条件に、怖気づくわけがねえじゃないか。ほんの少し、姐ちゃんを心配しただけのことだ。なら、まあ、お言葉に甘えさせてもらって、勝ちレースをやることにするか」
 秀治の言葉に「ママさん、そっちへ行ってもいいですか」と麻世は恭子に断りを入れ、カウンターの内側に移動した。
 秀治の前に立ち、右腕をカウンターの上にのせた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number