よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第六章 隔離施設のなかで・前

池永 陽You ikenaga

「なるほどなあ。女にしたら腕も太いし、手も大きいほうだが、男の俺とやり合う手じゃねえな」
 いいながら秀治もカウンターの上に右腕をのせ、麻世の右手をがっちりと握りこんだ。
「なら、その可愛い唇を頂くとするか」
 嫌な笑いを浮べてから、秀治は腕にぐいと力を入れた。
 が、麻世の右腕は動かなかった。
 さらに秀治は腕に力を入れた。
 やはり麻世の右腕は、びくともしない。
 秀治の顔に困惑の表情が浮んだ。
 渾身(こんしん)の力を右腕にこめた。
 秀治の顳顬(こめかみ)に青筋が立った。
 それでも麻世の右腕は動かなかった。
「じゃあ、行くよ」
 麻世が小さく声をあげた。
 その瞬間、秀治の右腕は、あっさりカウンターに押しつけられた。
 麻世の完勝だった。
 店内が喚声につつまれた。
 秀治の顔は途方に暮れていた。
 目が虚(うつ)ろだった。
「いったい、何がおきたんだ。なんで俺が負けたんだ」
 崩れるように丸イスに座りこみ、ひしゃげた声を出した。
「だからいったじゃないか。腕相撲には技もあれば、コツもあるって。私は正直にそれを実践しただけのことで、何の不思議さもそこにはないよ」
「それにしたって……」
 秀治の掠れ声にかぶせるように、
「私が勝ったんだから、約束通り、この店にはもうこないでよ。美咲さんにも変なちょっかいは出さないでよ」
 はっきりした声で麻世はいった。
 その声を聞いているのか、いないのか。秀治はのそりと立ちあがった。どうやら帰るつもりのようだ。ふらふらと歩き出す秀治の背中に向かって麻世の声が再度飛んだ。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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