よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第六章 隔離施設のなかで・前

池永 陽You ikenaga

 そうなのだ。あのあと二時間ほどエリックはカウンターの端に座って、オリオンビールを静かに飲んでいただけだった。といっても三度ほど美咲を呼んで、何やら小声で話はしていたが。
「あのときはいったい、何の話をしてたんだ、美咲ちゃん」
 麟太郎が何気なくこう訊くと、
「今度、どっかに行こうという、誘いの話です。そのたびに私は、さりげなく断りの言葉を伝えていましたけど」
「何だ。やっぱり、いうことだけは、ちゃんといってるのか、あいつは。それにしても、おとなしい男には違いないので少しは安心してるが」
 酔いも手伝ってか何度もうなずく麟太郎に、
「それが、あの人はキャンプ・ハンセンの基地ではボクシングのヘビー級のチャンピオンらしくて、ただ単におとなしい人だけではないような気もします」
 美咲が首を傾(かし)げていった。
「海兵隊のヘビー級のチャンピオンなのか、あの男は。ということは、相当強いということなのか」
 すぐに麻世が反応して、こんな言葉を口走った。
「おい、麻世。お前、そんな強い男と事をおこすつもりじゃねえだろうな」
 麟太郎は、すぐに戒めの言葉を口にしてから、
「やるなら腕相撲にしておけ。お前の腕相撲の強さだけは何度も見ていて、安心できるからよ」
 酔いがきているのか、両目を閉じて体を揺らせながら、それでも、はっきりと麻世に釘を刺した。

(つづく)

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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