よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第六章 隔離施設のなかで・後

池永 陽You ikenaga

「ところで、麻世(まよ)」
 母親の碑から視線を移し、こほんとひとつ空咳(からせき)をして麟太郎(りんたろう)は神妙な声を出した。
「昨夜、俺がちょっと飲みすぎちまって、うつらうつらしているとき、お前と美咲(みさき)さんは何か気にかかるようなことを話していたような気がしたんだが、あれはいったい、何の話をよ……」
 恥ずかしそうな口調でいった。
「けっこう大事な話だったので、いくら酔っぱらっててもじいさんのことだから、聞くべきところはきちんと耳に入れているものだと思って安心してたんだけど……ふうん」
 いかにも嬉(うれ)しそうに麻世はいった。
「こら、麻世。大人をからかうんじゃねえ。こうやって素直に聞いてなかったっていってるんだから勿体(もったい)振らずに、さっさと話せ」
 仏頂面で麻世を睨(にら)むが、いつもの迫力には欠ける。
「はいはい、ちゃんと話すから。聞き違いのないように、今度はしっかり頭に叩(たた)きこんでよ、じいさん」
 子供をあやすようにいって、麻世は昨夜の美咲とのやりとりを麟太郎に話し出した。
「ところで美咲さん、私にはあの半グレとの件で、ちょっと訊(き)きたいことがあるんだけど」
 と麻世はまず、怪訝(けげん)な眼差(まなざ)しを美咲に向け、
「あれだけ嫌なことをいわれれば、普通なら頭にくると思うんだけど、怒りもしないでおとなしくしてるのが、私にはよくわからない。あの半グレに対して甘いような気がしてならないんだけど」
 気になっていたことを、ずばりと訊いた。
「それは」
 美咲は一瞬口ごもってから、
「あの子のお父さんが何というか、若いころあの店の常連で、私のお母さん目当てにけっこう通いつめていたという話を、以前あの子から聞いたことがあって……その当時のことを、そのお父さんからよく聞いていたと、あの子が意味ありげな口調でいってたから」
 消え入りそうな声で答えた。
「それはつまり、美咲さんのお母さんの律子(りつこ)さんが当時、誰とつきあっていたのかということとか……そういうことを」

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number