よみもの・連載

下町やぶさか診療所3

第六章 隔離施設のなかで・後

池永 陽You ikenaga

 尚高が本当に羨(うらやま)しそうにいった。
 温和な顔に戻っている。
「いいよ、許してやるよ。その代り、あんたが知っている美咲さんのお母さんの大事なこと、きっちり話してみなよ」
 押し殺した声で麻世はいった。
「それは……」
 と秀治は一瞬上ずった声をあげてから、
「親父の話では、お腹の子の父親は医者のようだと――そんなことを美咲のお母さんがぽろりと口走ったと」
 疳高(かんだか)い声で一気にいった。
「医者……」
 呟(つぶや)くように口にしてから、麻世がじろりと麟太郎を見た。
「他には――」
 低い声で麻世が秀治をうながす。
「それだけで他には、もうない。それが俺の切札だった」
 首をたれた。
「何だか生臭い話になってきたようだが、それはそれとして、お嬢ちゃん」
 温和な目が麻世を見ていた。
「あんた、えらく強そうだが。どうかの、この、おじいと一度立ち合ってみんかの」
 なんと、尚高は麻世に試合を申しこんだ。
 麻世の目が尚高の顔を、正面から見すえた。
「いいよ」
 ぽつりと麻世がいった。
 五分後。
 麻世と尚高は、道場の中央で対峙(たいじ)した。
「行きますぞ、お嬢ちゃん」
 尚高はのんびりした声をかけ、ひょこひょこと麻世に近づいた。
 麻世は……どういう加減なのか、じりじりと後退(あとずさ)りを始めた。
 そこへまた、尚高がひょこひょこと近づく。また麻世が後退りをする。その繰り返しの展開がつづいた。
「お嬢ちゃん。これでは試合には……のう」
 その声に誘発されたのか、いきなり尚高の前に麻世が飛びこんだ。渾身(こんしん)の逆蹴りが尚高の水月(すいげつ)に飛んだ。が、そこには尚高はいなかった。わずかに右に回りこんで……さっきの秀治との試合と同じ展開だった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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