第六章 隔離施設のなかで・後
池永 陽You ikenaga
尚高の右手が麻世の肩を、とんと突いた。
信じられないことだが、その軽い一撃で麻世は三メートルほど、ふっ飛んだ。
起きあがって座りこんだ麻世は、呆然(ぼうぜん)とした表情で宙を見つめている。そこへひょこひょこと尚高が近づいた。
「大丈夫かの、お嬢ちゃん」
優しげな声をかけた。
「私は負けたのか……」
呟くように麻世はいった。
「そうだの、そうらしいの」
「どうしたら、あんたのような動きができるんだ」
すがるような目だった。
「起こり、それから崩しだの」
訳のわからないことを、尚高は口にした。
「やっぱり起こりが重要なのか。崩しは、その後か」
「そうだの。起こりが見極められれば、あとは何とでもなるからの」
「どうしたら、その起こりを見極められるんだ。それを教えてほしい」
訳のわからない会話がつづく。
「無理――」
ぼそっと尚高はいった。
「若すぎる。もっと泣いたり笑ったり、苦しんだり。そうして年を重ねればの」
そういって尚高はこくんと、うなずいた。
そのとき麟太郎が手にしていた麻世の上衣のなかで何かが振動した。スマホだ。麟太郎は慌ててスマホを取り出した。画面を見ると美咲からだった。麟太郎はそのままスマホを耳に押しあてた。
「すまない、美咲ちゃん。麻世は今、ちょっと電話に出られない状況だから」
というとすぐに、
「大(おお)先生でもいいです――お母さんが『でいご』に現れたって恭子(きょうこ)ママが」
切羽つまったような、美咲の声が響いた。
律子が、でいごに……。
麟太郎は思いきりスマホを、耳に押しあてた。
(つづく)
- プロフィール
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池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。