よみもの・連載

「タ」は夜明けの空を飛んだ

第一章 それ以前の世界(前)

岩井三四二Miyoji Iwai

   一


明治二十七年七月二十八日 米国マサチューセッツ州


 ボストン近郊のハーバード大学構内、オールドヤードにある煉瓦(れんが)造りの城塞のようなメモリアルホールは、学生のたまり場となっている。
 その中にある薄暗いカフェテリアで、木村駿吉(きむらしゅんきち)は紅茶とクロワッサンを前に、米国人学生とさかんに議論をしていた。
「だからさ、ヨーロッパにも声をかけるのさ。英国だけじゃなくてフランス、ドイツも必要だろう。アジアじゃ日本が中心になってすすめる。全世界組織ってわけだ」
「話は大きいな。でも足がかりはあるのかい。要するに、知り合いはいるのかってことだ」
 駿吉の相手をしている金髪碧眼(へきがん)の男は、大きなマグカップを手に、にやにやしながら聞いている。細長い髭面(ひげづら)に丸眼鏡をかけた駿吉は日本人としては長身だが、米国人相手だといくらか小柄に見えた。
「教授が知ってるだろう。ぼくらはその手足になればいい」
「どうかな。うちの教授はあんまり学会活動に熱心じゃないからな。それに君は、もうエールに移る準備をしているっていうじゃないか。教授を説得できるのか」
「ま、エール大学に移ってもやることは一緒だからな。ここにいるうちにやっておこうと思ってさ」
 駿吉は紅茶をひと口すすった。内心、どうもこの男は脈がなさそうだと思っている。
 昨年、二十六歳のときこのハーバード大学にきた駿吉は、大学院で物理学と応用数学の研究をすすめていた。
 日本では帝国大学の理科大学と大学院を卒業しており、院生のときに教官だったイギリス人の教授との共著で、英国の学術雑誌に論文を発表もしている。ハーバードでも入学の一年後には学業優等証を得たほどで、自分の学力には自信をもっていた。
 ところが自信満々で提出した論文「外磁力の中で回転する長球体の電磁感応」が、どうも学内で棚ざらしにされている気配がある。理由は不明だが、教授連の怠慢としか思えない。この論文で奨学金を得ようとしていた駿吉には大いに不満であった。
 そこでハーバードではなくエール大学に論文を提出したところ、評判がよくて、奨学金を得られそうになっていた。そこでハーバードからエールへ移る手続きをとった。私費で留学している駿吉には、ひと安心といったところである。
 いくらか余裕をもった駿吉は学外の活動に目をむけ、四元法(よげんほう)という、自分の研究分野に関係の深い数学理論の国際学会をつくろうとして、あちこちに声をかけているところだった。
「話はわかったけど、ちょっと時期尚早じゃないかな。教授がいうのなら手伝うけど、そうでもないんだし」
 男はそういうと、またな、と握手をして席を立った。

プロフィール

岩井三四二(いわい・みよじ) 1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」でデビュー。同作品で第64回小説現代新人賞を受賞。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『絢爛たる奔流』『天命』『室町もののけ草紙』など著書多数。

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