よみもの・連載

「タ」は夜明けの空を飛んだ

第二章 新しい世界を拓(ひら)け(前)

岩井三四二Miyoji Iwai

   一

 日清戦争の終結から五年後の明治三十三年二月二十七日――
 西にかたむいた太陽が、地面に木々の長い影を作っている。
 隅田川(すみだがわ)河口近くの築地(つきじ)にある海軍用地には、海軍大学校のほか海軍主計官練習所(のちの海軍経理学校)、海軍造兵廠(しょう)などがおかれているが、もともと老中松平定信(まつだいらさだのぶ)の屋敷の庭園だったため、学校などの建物群から離れた一画には、幕府時代に練習艦を係留していた大池(おおいけ)のほか、春風池(しゅんぷういけ)とか秋風池(しゅうふういけ)といった優雅な名前で呼ばれる池や築山(つきやま)も残っていた。
 その春風池の近くに建つ古ぼけた平屋の前で、茶色の背広に白いチョッキ姿の男が大勢を前に話をしている。
「なぜこのような現象が起きるのか、と申しますれば」
 背広の男はそう言うとひと呼吸おいて、周囲の者たちを見まわした。
 そこにいるのは、濃紺詰襟の軍服に軍帽をかぶった海軍将校たちだった。中心にいるのは大臣や軍令部長といった海軍の首脳陣で、みな鋭い視線を男に投げかけている。
「それは、イーサーの振動によるのであります」
 背広の男が言うと、イーサー? という当惑したつぶやきが軍服の群れからもれる。
「イーサーとは、謎の物質であります。ま、光や電磁波を伝える媒体、とお考えください。音を伝える空気のようなものです。この宇宙の隅々にまで満ちあふれているはずなのに、誰もそれを測ったこともなく、どんな物質なのかを解明したこともありません。しかしそれがなければ光も電波も伝わらないので、必ずあるはずなのであります」
 軍服の群れは、得々としゃべる背広の男をいくらか不思議そうな眼差(まなざ)しで見ている。
 たったいま、ここで無線の通信実験がおこなわれたところだった。
 古ぼけた平屋の前に受信機をおき、木立を隔てて二百メートルほど離れたところにおいた送信機から発信した。すると受信機は、「アサヒ」「ユウヒ」「ウメハサイタカサクラハマダカ」といった送信機の発した電文を、見事に受信してみせたのである。
 成功裡(り)におわった実験のあとで、製作者である松代松之助(まつしろまつのすけ)技師が無線の仕組みを説明しているのだった。
「イーサーは英語ですが、ドイツ語にするとエーテルとなります。エーテル理論、というとご存じの方も多いかもしれません」
 ああ、という声がいくつかもれた。
 尉官以上の将校は、みな海軍兵学校を出ている。艦船や兵器をあつかう必要上、兵学校は理系の授業が多く、また卒業後も節目節目で砲術や航海術などの専門教育を受けるので、将校は科学については一般人より明るい。

プロフィール

岩井三四二(いわい・みよじ) 1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」でデビュー。同作品で第64回小説現代新人賞を受賞。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『絢爛たる奔流』『天命』『室町もののけ草紙』など著書多数。

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