よみもの・連載

「タ」は夜明けの空を飛んだ

第四章 海上は波高し(前)

岩井三四二Miyoji Iwai

   一

「こいつはどうにもならない。ひとつ、人生の休暇ってやつだと考えますかね」
 と言う駿吉(しゅんきち)を、外波(となみ)中佐は険しい目でじろりとにらんだ。
 ニューヨークを出航したときは陰鬱な曇り空で、雪もちらつきずいぶんと寒かったが、この十日間ほどは快晴で汗ばむほど暑い。波もおだやかな日がつづいている。
「休みもいいが、いまのうちに米国での調査報告をまとめておいてくれよ」
 船尾甲板の白いクロスのかかった丸テーブルについた外波中佐は、生ぬるいジンをすすりながら言う。テーブルの向かいにすわった駿吉は、バーボンの水割りをなめている。
 ふたりとも半袖の開襟シャツに白い綿のパンツ、というくだけた姿である。
 ふたりの頭上にある青い空には陽光が満ちあふれ、凪(な)いだ海の彼方の水平線上には白い入道雲が踊っている。いくらか風もあるが、暑さをやわらげてくれるほどではない。
「報告ってったって、ご存じのようにろくなものになりゃしませんがね。まあ、まとめますよ。仕事ですから」
 ふたりは昨年暮れに日本郵船の客船で横浜を出航し、まずはサンフランシスコに上陸。そこから大陸を横断しつつさまざまな機関と接触、無線の調査をすすめていった。
 ひと月ほどで東海岸に着くと、ボストンやシカゴの大学や企業をたずね、そののちニューヨークからイギリスのサザンプトンを目指して出航したのだった。
「ああ、報告書がぼくの遺書になるかもしれないな。ま、科学者木村駿吉にはふさわしい遺書だと言われるかな」
「おい、縁起でもないことを言うな。酒がまずくなる」
「洋酒も、どうも好きになれないな。冷や酒で一杯やりてえなあ。肴はするめでいいや」
「貴様、留学してたんだろう。そのあいだは飲まなかったのか」
「留学したからこそ、日本の酒のうまさってのが身にしみるんで」
「ああ言えばこう言う、か。江戸っ子ってのはほんとに口八丁手八丁だな」
「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口ばかり大きくて腸(はらわた)はなし、ってね。ま、江戸っ子が情けなかったおかげで薩長が勝ち、ご維新がなって、われわれもこうして大西洋に浮かんでいられるんでさ」
「あんまり長く浮かんでいたくないが」
「明日でニューヨークを出てから二十日ですかねえ。もうとうにイギリスに着いているころだけど」
「それを言うな」

プロフィール

岩井三四二(いわい・みよじ) 1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」でデビュー。同作品で第64回小説現代新人賞を受賞。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『絢爛たる奔流』『天命』『室町もののけ草紙』など著書多数。

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