よみもの・連載

「タ」は夜明けの空を飛んだ

第五章 神は細部に(前)

岩井三四二Miyoji Iwai

 露清間の条約によると、ロシアは三回にわけて満州から兵を引くことになっていた。一回目は昨年十月に盛京(せいけい)省の西南部からの撤兵で、これは約束どおりに実行された。二回目の期日はこの四月で、ロシア軍は盛京省の残りの地域と吉林(きつりん)省から撤兵するはずだった。
 ところが四月になってもロシアは兵を引かず、それどころか逆に、清国に対して満州にロシアの権益を認めるよう、七箇条の要求を突きつけたのである。
 怒った清国によって、この事実は世界中に伝えられ、国際的な批判を巻き起こすことになった。もちろん日本でも報道され、さまざまに波紋が広がっていた。
「やはりロシアは信用ならない、英国と同盟を結んでおいてよかった、という話か」
「そんな生やさしい話じゃありません。事態遂(つい)に放任を許さず、って新聞に出てましたわよ、パパさま。戦争になるの?」
 そこまで進んでいたのか、とおどろき、香芽子が差し出した新聞に目を通した。
 新聞の論調は、ロシアの横暴を指摘し、ロシアが満州を手に入れれば、すぐに朝鮮にも手を伸ばしてくるだろう、朝鮮がロシアの手に落ちれば、つぎは日本にその軍事力をむけてくるかもしれない、という恐怖と悲憤に満ちたものだった。しかし「だから開戦せよ」というわけでもなく、日露両国民に冷静になるよう呼びかけ、平和を訴えている。
 駿吉はひとつ大きく息を吐いた。
「どうなるものかねえ。将来のことなど、誰にもわからないよ」
 と言うのが精一杯だった。
 それ以来、気をつけて新聞を見るようにした。しばらくのあいだは「少なくとも一部は撤兵した」とか、「露国は必ず撤兵せん」といった記事も見られたが、四月下旬にはロシアが撤兵していないことがはっきりし、対露強硬論も見られるようになった。しかし全体としては、ロシアへの不信感を表明しながらも平和を訴える記事が多く、開戦を呼びかける論調の記事は少数派だった。
 毎朝、駿吉は身支度を終えると歩いて波止場へ出て、小さな内航船で試験所へ通った。
 ある日はアンテナの試験、ある日は放電球の試験と、実地に機器を試しながら結果を出し、課題をひとつずつ潰してゆく日々がすぎてゆく。
 試験所では、開戦する、しないといった話はほとんど出なかった。横須賀の軍港全体としてもこれまでと変わった様子はなく、戦争が近づいているという感じはまったくしなかった。海軍では、命令があれば出撃し敵と戦うが、それを決めるのは自分たちではない、という意識が底にあるようだった。
 しかし六月になると、いくらか風向きが変わってきた。

プロフィール

岩井三四二(いわい・みよじ) 1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」でデビュー。同作品で第64回小説現代新人賞を受賞。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『絢爛たる奔流』『天命』『室町もののけ草紙』など著書多数。

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