よみもの・連載

「タ」は夜明けの空を飛んだ

第五章 神は細部に(前)

岩井三四二Miyoji Iwai

   五

 駿吉は、縁側においた椅子にすわって紅茶を飲んでいた。
 横須賀中里の家は、それまで住んでいた下高輪(しもたかなわ)の家よりかなり広い。それでも子供たちに部屋をとられてしまい、自分で使えるのは書籍に大半を占領された四畳半と応接間、それに八畳の居間につづく縁側ばかりだった。
 兵器廠から帰宅し、夕食を終えたあとは、欧米から取り寄せた雑誌や学会誌を読んですごすことが多い。その日は無線にかかわる論文ひとつを、翻訳して日本の学会誌に紹介しようかと考えていた。
 海軍に奉職していても、駿吉は学者としての長年の習慣は変えず、時に学会誌に論文を発表していた。翻訳だけでなく海軍での開発で得られた知識も発表してしまうので、軍の機密を外に漏らすなと軍当局から注意をうけたこともある。だが「有用な知識を世にひろめてなにが悪い」と思い、せっせと発表をつづけていたが、この夏からの忙しさで一時中断していた。
 やはりあれは翻訳すべきだと考えがまとまったころには、夜も更けていた。着替えて寝床に入ったが、そのとき不意にひとつのアイデアがひらめいた。
 ――これはアンテナの原理にかかわっているのではないか。
 いっぺんに目が冴(さ)えてしまった。

 翌朝、駿吉は早足で波止場にむかっていた。
 昨夜、論文に触発されて寝床で思いついたアイデアを確かめるため、実験をしようと思っていた。比較的簡単ながら、成功すればアンテナの原理に一歩踏み込むことができそうだ。
 そのため、朝の身仕度もそこそこに家を飛び出してきたのだった。朝食のときも頭の中は実験のことでいっぱいだったので、香芽子が不満そうになにか言っていたが耳に入らなかった。
 船着き場に着くと、いつもは人が群れているのに、なぜか誰もいなくて静かだった。混み合う船は好きではないので、こいつはついていると思った。
 内航船を待つあいだも、実験のことを考えつづけている。
 と、そのうちにアイデアの穴が見えてきた。

プロフィール

岩井三四二(いわい・みよじ) 1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」でデビュー。同作品で第64回小説現代新人賞を受賞。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『絢爛たる奔流』『天命』『室町もののけ草紙』など著書多数。

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