よみもの・連載

「タ」は夜明けの空を飛んだ

第六章 日露開戦(後)

岩井三四二Miyoji Iwai

   五

 そうして七月となった。
 駿吉(しゅんきち)は横須賀工廠(よこすかこうしょう)での仕事が終わった夕方から、吾妻山(あづまやま)の施設にのぼり、机の上の受信機にひとりで対していた。
 夜間のことであり、虫の声と風の音以外は聞こえない。うちわで蚊を追いながら、受信機を見ていると、突然、カタカタ、コツコツと音がした。電波を感じたコヒーラとデコヒーラが動き出したのだ。
 ついで印字機が動きはじめ、点と線を記した紙テープをはき出す。
「G……、R……、O……、か。うーん」
 駿吉は紙テープをにらんで信号を読みあげてゆく。
 それなりの文章があらわれるが、意味がわからない。英語でないことはたしかだ。ドイツ語でもない。フランス語でもなさそうだ。
「ロシア軍艦の交信なのはまちがいないとして、やはりロシア語だよな。ロシア語のわかるやつをつれてこないと駄目か」
 ひとりごとをつぶやきながら、駿吉は紙と鉛筆をとりだし、紙テープ上のモールス信号をアルファベットに置きかえて書き出していった。
「それにしても、太平洋側まで来るかねえ」
 二月の開戦以降、日本海軍の主力は旅順(りょじゅん)港封鎖にかかりきりになっていたが、その隙に、日本の輸送船がロシアの巡洋艦に撃沈される事件が何件かおきていた。
 ロシア太平洋艦隊は遼東(りょうとう)半島にある旅順だけでなく、ロシア領内のウラジオストックにも巡洋艦を主力とする分遣隊をおいていた。この巡洋艦隊が水雷艇をひきつれて日本海を徘徊(はいかい)し、非武装の商船や輸送船を襲うのだ。
 二月の開戦直後にはロシア、グロモボイ、リューリック、ボガトィーリの四隻の巡洋艦が津軽(つがる)海峡に出没し、奈古浦(なこのうら)丸など二隻の商船を沈めた。これを捨てておけずに、三月には上村(かみむら)中将のひきいる日本の第二艦隊がウラジオストックを砲撃したが、港の奥にひそんだ巡洋艦隊には打撃を与えられなかった。
 四月の末にウラジオ艦隊は水雷艇とともに朝鮮半島近海に出てきて、まず元山(げんざん)港を襲った。停泊していた商船を魚雷で撃沈し、ついで新浦(しんぽ)沖に出て、陸軍の兵を満載した金州丸(きんしゅうまる)も、降伏した兵を収容したあと砲撃により沈めた。金州丸には護衛の水雷艇がついていたが、濃霧と荒天で水雷艇が離れたところを襲われたのだ。

プロフィール

岩井三四二(いわい・みよじ) 1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」でデビュー。同作品で第64回小説現代新人賞を受賞。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『絢爛たる奔流』『天命』『室町もののけ草紙』など著書多数。

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