よみもの・連載

「タ」は夜明けの空を飛んだ

第六章 日露開戦(後)

岩井三四二Miyoji Iwai

   六

 八月十三日未明。
 山本大尉は巡洋艦出雲(いずも)のコンパス・ブリッジに立っていた。
 まだ暗い北東の方角を、双眼鏡でのぞいている。
 十数分前に、左舷艦首の方角に灯火らしきものが三つ見えた、とマスト上の見張員から報告があり、士官室のハンモックから飛び起きたのだ。
「見えるか」
 佐藤(さとう)中佐が寄ってきてたずねる。
「いえ、何も。暗いですし、いくらか濛気(もうき)があがっていますので」
「そろそろ明けてくるだろう。発令の仕度をしておいたほうがいいな」
「やはり敵さんでしょうか」
「そうだろうよ。ここで灯火三つとは、偶然と思えん」
 灯火がひとつならどこかの商船と思われるが、三つというところが微妙だった。
 ロシアのウラジオ艦隊の主力は、巡洋艦三隻である。
 ウラジオ艦隊には、煮え湯を飲まされっぱなしだった。
 七月半ばにウラジオ艦隊が津軽海峡を突っ切って太平洋にあらわれたときには、当然、上村艦隊に出動命令が下った。
 このとき軍令部は、ウラジオ艦隊が南下して九州沖をまわり、旅順へ向かうものと想定し、上村艦隊に宮崎県の都井(とい)岬望楼付近の海域でひとまず待つよう命令を発したのである。望楼には無線機があるから、東京からの命令もすぐに届く。
 満を持していた上村艦隊は、出港して九州西岸を南下した。しかし数時間後、今度は東郷(とうごう)司令長官から、北海道の渡島大島(おしまおおしま)西方へ向かえとの訓令をうけた。
 東郷長官麾下(きか)の連合艦隊司令部は、ウラジオ艦隊は旅順には向かわず、来たときとおなじく津軽海峡をとおってウラジオストックにもどると見たのだ。それを北海道西部で待ちぶせしろ、との命令なのである。
 軍令部は南へ、連合艦隊司令長官は北へ行けという。
 ふたつの相反する命令をうけて上村艦隊の参謀たちは混乱したが、検討の末、軍令部の命令のとおり、南回りで東京方面に向かうこととした。

プロフィール

岩井三四二(いわい・みよじ) 1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」でデビュー。同作品で第64回小説現代新人賞を受賞。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『絢爛たる奔流』『天命』『室町もののけ草紙』など著書多数。

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