よみもの・連載

「タ」は夜明けの空を飛んだ

第六章 日露開戦(後)

岩井三四二Miyoji Iwai

 昨夜、別の参謀が言ったが、山本大尉は即座に反論した。
「いえ、そうとは思えません。なぜなら、一度ウラジオストックを出て旅順に向かってしまえば、ウラジオ艦隊はどことも連絡のとりようがないからです。ウラジオ艦隊も、おそらく積んでいる無線機は八十海里(約百四十キロメートル)ほどの通信距離しかないでしょう。旅順まで南下する航路のうち、八十海里以内にロシア領はありません」
 だからウラジオ艦隊は、旅順を出た味方の艦隊が引き返したと知らぬまま航行している可能性が高い。
 闇の中に見えたという三つの灯火こそ、戦況を知らずに突っ込んでくるウラジオ艦隊ではないのか。
 東の方角を見る。夏なので夜明けは早い。漆黒の闇は澄んだ紫色に変わっている。空には雲がなく、風は南の微風。海面には霧が立ちこめている。
 またしても濃霧にはばまれるのかといらだちを覚えたが、幸いにも今朝の霧はそこまで濃くなかった。
 空が紫色から透明な群青色になるにつれ、視界が広がってゆく。
 そのころ、海上に三隻の艦影が見える、とマスト上の見張り員から連絡があった。
 コンパス・ブリッジにはすでに上村中将をはじめ第二艦隊の司令部員がみなあつまっている。
「先頭がロシア、ついでグロモボイ、リューリックとおぼゆ」
 伝声管をとおして、ブリッジに見張り員の声がとどく。やはり三つの灯火はウラジオ艦隊だったのだ。
「敵見ゆと打電せよ」
 佐藤中佐の最初の指示が飛んだ。山本大尉はすぐに暗号文を起草し、打電した。
 これで周囲八十海里にいる艦船に伝わる。第四戦隊の巡洋艦もあつまってくるだろう。対馬のどこかの望楼が受信すれば、海底ケーブルをとおして東京の軍令部までも転電されるはずだ。なんと便利なことか。
「総員起こし!」
 伊地知(いじち)艦長の声が飛ぶ。明け直(四時から八時の当直)以外の兵は寝ている時刻だ。伝令兵が駆けだし、すぐに起床ラッパが鳴った。
「見えます! 三隻です」
 望遠鏡で東の方を見ていた参謀のひとりが叫ぶ。艦橋のみなが自分の望遠鏡をとりだし、おなじ方角に向けた。たしかに黒煙の筋の下に艦影が見える。五百メートルほどの間隔をあけて単縦陣で航行していた。

プロフィール

岩井三四二(いわい・みよじ) 1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」でデビュー。同作品で第64回小説現代新人賞を受賞。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『絢爛たる奔流』『天命』『室町もののけ草紙』など著書多数。

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