よみもの・連載

「タ」は夜明けの空を飛んだ

第六章 日露開戦(後)

岩井三四二Miyoji Iwai

「海軍もどうだか。黄海と蔚山沖の海戦で勝ったようだけど、最後は敵さんをいっぱい逃がしちまった。いまのうちに全部沈めておかねえと、バルチック艦隊がきたら目もあてられねえっていうのに。敵に情けをかけるようじゃあいけねえ。いや、雇い主を悪く言っちゃあいけねえが」
 係官は笑いをかみ殺すような表情になった。たしかに笑っている場合ではない。
「陸軍さんも、乃木(のぎ)大将がご子息をふたりも亡くされたとか。おかわいそうに。でも二〇三高地が落ちたから、旅順ももうすぐでしょうね。落ちたら国中でお祭りさわぎでしょうなあ」
 軍人のみならず、いま国民の関心事は旅順の攻防とバルチック艦隊に集中している。
 二月の開戦以来、日本の陸海軍は連戦連勝だった。
 陸軍は仁川(じんせん)に上陸後、鴨緑江(おうりょくこう)をわたって進軍、遼東半島の付け根をおさえ、遼陽(りょうよう)の会戦に勝利、とロシアの陸軍を押しまくった。
 しかし旅順要塞の攻防では味噌(みそ)をつけた。攻めても死傷者が増えるばかりで、なかなか落とせないでいるのだ。
 海軍は日本海と黄海の制海権を手にしている。いまや残存のロシア艦隊は旅順港内に閉じこもって出てこず、ウラジオの巡洋艦隊も上村艦隊に破壊されたため、出てこなくなっている。日本の輸送船が襲われる心配はないのだが、といって安心はできなかった。
 ロシアがヨーロッパにもっているもうひと組の艦隊、バルチック艦隊が、十月十五日にリバウの軍港から出航していた。行き先は、もちろん旅順港である。
 バルチック艦隊が日本海に姿を見せる前に、旅順の太平洋艦隊をつぶさなければならない。
 しかし旅順港は陸上の強力な砲台に守られており、港内に籠もって出てこないロシア艦隊を海のほうから攻撃することはできなかった。そこで陸上からの砲撃でロシア艦隊を沈めることとなり、陸軍が旅順要塞を攻略にかかった。
 旅順要塞が陥落すれば、ロシア艦隊も同時に壊滅する、という状況になったのである。
 ところが要塞は強固で、いくら攻めても落ちない。乃木将軍がひきいる第三軍は要塞に向かって突撃を繰り返しては死傷者ばかりをふやしていた。
 苦戦の末、十二月になってようやく要塞の一角、二〇三高地を陥落させ、そこに観測員をおいて港内のロシア艦隊を砲撃するまでにこぎつけていた。
 こうした状況は新聞が盛んに書き立てたので、日本では子供までもが知っている。正月ではあったが、世間の関心はいつ陸軍が旅順を落とすのか、バルチック艦隊がくるまでに間に合うのか、に集中している。
 そのバルチック艦隊の動向は、世界中に報道されていた。
 十二月のいま、すでにアフリカ南端の喜望峰(きぼうほう)を回ってインド洋にまできている。おそらくあと二カ月ほどでこの台湾の近海に姿を見せるだろう。
「よし、こいつを付けてやろう。イギリス製の優秀なリレーだ」

プロフィール

岩井三四二(いわい・みよじ) 1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」でデビュー。同作品で第64回小説現代新人賞を受賞。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』『絢爛たる奔流』『天命』『室町もののけ草紙』など著書多数。

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