連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志5 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「今川家の版図を思い浮かべながら、よくお考えくだされ。もしも、われらが総力を上げて武田を叩き潰し、甲斐一国を手に入れたとして、いったい何が得られまするか。嶮岨(けんそ)な山々に囲まれ、大した作物も獲れぬ狭隘(きょうあい)な領地と疲弊しきった民。それだけしか得られませぬ。されど、西へ眼を向ければ、遠江、三河、尾張の肥沃な平地と湊(みなと)や海運が広がっておりまする。ここは元々、今川家の三管領(さんかんれい)の斯波(しば)家が分け合っていた領地にござりまする。されど、その斯波家が見る影もなく没落しましたゆえ、今こそがまたとない好機。今川家は西に向かって領地を広げていくべきと存じまする。ひいては、伊勢、美濃、近江を制し、京への道を開くことが、天下の副将軍まで務めました今川家の本懐ではありませぬか。そのためには、背後を安全にしておかなければなりませぬ。甲斐は、いわば鶏肋(けいろく)。出汁(だし)にはできても、腹は満たされぬ土地にござりまする。それに比べ、武田信虎(のぶとら)の凶暴さは群を抜いており、奪(と)るに難く、得てもさしたる利がありませぬ。さような国とは、さっさと手を結ぶに限りまする。さすれば、信虎も心おきなく豊かな信濃へ出ていけますゆえ、これは互いにとって好都合な和睦にござりまする」
「されど、それでは北条家がつむじを曲げるのではないか。長らく当家に付き合うて甲斐と戦をしてきたのだから」
「今川の外交に、北条家が口を挟むことはできませぬ。もし、不満があったとしても、手出しをすることはできますまい。せいぜい、氏親様が与えた河東(かとう)の一帯を取り返しにくるぐらいでありましょう。それならば、ちょうどよい線引きができますゆえ、目くじらを立てる必要もありませぬ。今川家は北と東から敵がいなくなり、西に専心できるということ」
「確かに、辻褄(つじつま)は合うていると思う。されど、甲斐の武田が、さほど容易(たやす)く和睦の話に乗ってくるであろうか」
「成算がなければ、かようなお話はいたしませぬ」
「何か、伝手(つて)があるのか?」
「すでに、話は持ちかけてありまする」
「まことか!?」
 義元は眼を見開く。
「……そなたは、そこまで深く物事を見通しておるのか」
「そうでなければ、義元様の軍師は務まりませぬ。ここまで申し上げましたついでに、この後の読みもお聞かせいたしまする。おそらく、今夜もしくは払暁間際に久能山の敵が奇襲をかけてきましょう。そして、大御台様はご無事にござりまする。もしも、この二つの読みが当たらなければ、この身は駿府を去り、京の山門へ戻りまする」
 雪斎は微(かす)かな笑みを浮かべながら言った。
「では、着付けをお手伝いいたしますゆえ、具足に着替えましょう。兜(かぶと)を被るには、かえって髷がない方がよろしゅうござりまする」
 黒衣の軍師に促され、義元は軍装を整えるために立ち上がる。
 これが五月二十四日のことであった。
 その夜更け過ぎ、東の久能山から玄広恵探に与(くみ)した駿東の軍勢が今川館に攻め寄せる。
 朝比奈元長をはじめとし、瀬名氏貞(うじさだ)、由比光詔(みつつぐ)など義元の側に立った重臣の軍勢が万全の態勢で迎え撃つ。払暁まで戦いは続いたが、敵を押し返した。
 それとほぼ同時に、藤枝(ふじえだ)の岡部(おかべ)郷にある朝日山城から早馬が駆け付ける。寿桂尼に随伴した岡部親綱からの遣いだった。
 その報告によれば、福島越前守は説得に訪れた寿桂尼を軟禁しようとしたが、岡部親綱と朝比奈泰能がそれを阻止し、一行は花倉を逃れて朝日山城へ入っていた。
「ならば、母上はご無事なのだな?」
 義元は遣いとなった朝比奈泰長(やすなが)に訊く。この者は泰能の従弟(いとこ)にあたり、浜名湖西岸にある宇津山(うつやま)城々主である。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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