「今川家の版図を思い浮かべながら、よくお考えくだされ。もしも、われらが総力を上げて武田を叩き潰し、甲斐一国を手に入れたとして、いったい何が得られまするか。嶮岨(けんそ)な山々に囲まれ、大した作物も獲れぬ狭隘(きょうあい)な領地と疲弊しきった民。それだけしか得られませぬ。されど、西へ眼を向ければ、遠江、三河、尾張の肥沃な平地と湊(みなと)や海運が広がっておりまする。ここは元々、今川家の三管領(さんかんれい)の斯波(しば)家が分け合っていた領地にござりまする。されど、その斯波家が見る影もなく没落しましたゆえ、今こそがまたとない好機。今川家は西に向かって領地を広げていくべきと存じまする。ひいては、伊勢、美濃、近江を制し、京への道を開くことが、天下の副将軍まで務めました今川家の本懐ではありませぬか。そのためには、背後を安全にしておかなければなりませぬ。甲斐は、いわば鶏肋(けいろく)。出汁(だし)にはできても、腹は満たされぬ土地にござりまする。それに比べ、武田信虎(のぶとら)の凶暴さは群を抜いており、奪(と)るに難く、得てもさしたる利がありませぬ。さような国とは、さっさと手を結ぶに限りまする。さすれば、信虎も心おきなく豊かな信濃へ出ていけますゆえ、これは互いにとって好都合な和睦にござりまする」 「されど、それでは北条家がつむじを曲げるのではないか。長らく当家に付き合うて甲斐と戦をしてきたのだから」 「今川の外交に、北条家が口を挟むことはできませぬ。もし、不満があったとしても、手出しをすることはできますまい。せいぜい、氏親様が与えた河東(かとう)の一帯を取り返しにくるぐらいでありましょう。それならば、ちょうどよい線引きができますゆえ、目くじらを立てる必要もありませぬ。今川家は北と東から敵がいなくなり、西に専心できるということ」 「確かに、辻褄(つじつま)は合うていると思う。されど、甲斐の武田が、さほど容易(たやす)く和睦の話に乗ってくるであろうか」 「成算がなければ、かようなお話はいたしませぬ」 「何か、伝手(つて)があるのか?」 「すでに、話は持ちかけてありまする」 「まことか!?」 義元は眼を見開く。 「……そなたは、そこまで深く物事を見通しておるのか」 「そうでなければ、義元様の軍師は務まりませぬ。ここまで申し上げましたついでに、この後の読みもお聞かせいたしまする。おそらく、今夜もしくは払暁間際に久能山の敵が奇襲をかけてきましょう。そして、大御台様はご無事にござりまする。もしも、この二つの読みが当たらなければ、この身は駿府を去り、京の山門へ戻りまする」 雪斎は微(かす)かな笑みを浮かべながら言った。 「では、着付けをお手伝いいたしますゆえ、具足に着替えましょう。兜(かぶと)を被るには、かえって髷がない方がよろしゅうござりまする」 黒衣の軍師に促され、義元は軍装を整えるために立ち上がる。 これが五月二十四日のことであった。 その夜更け過ぎ、東の久能山から玄広恵探に与(くみ)した駿東の軍勢が今川館に攻め寄せる。 朝比奈元長をはじめとし、瀬名氏貞(うじさだ)、由比光詔(みつつぐ)など義元の側に立った重臣の軍勢が万全の態勢で迎え撃つ。払暁まで戦いは続いたが、敵を押し返した。 それとほぼ同時に、藤枝(ふじえだ)の岡部(おかべ)郷にある朝日山城から早馬が駆け付ける。寿桂尼に随伴した岡部親綱からの遣いだった。 その報告によれば、福島越前守は説得に訪れた寿桂尼を軟禁しようとしたが、岡部親綱と朝比奈泰能がそれを阻止し、一行は花倉を逃れて朝日山城へ入っていた。 「ならば、母上はご無事なのだな?」 義元は遣いとなった朝比奈泰長(やすなが)に訊く。この者は泰能の従弟(いとこ)にあたり、浜名湖西岸にある宇津山(うつやま)城々主である。