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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)22 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 河内路はすっかり闇に包まれ、脇の林に入れば人影も見えなくなっている。それを利用して間諜が蠢(うごめ)いていた。
 その頃、信虎の一行はまだ国境を越えておらず、松明を先頭に富士川(ふじがわ)の支流となる稲瀬川(いなせがわ)を渡ろうとしているところだった。
 この浅瀬を渡ってしまえば、ようやく甲斐の側へ入り、万沢まではあと一里(約四キロ)ほどということになる。
 陽が沈んでしまったというのに、一行の足取りは重く、さっぱり速度が上がらない。
 それもそのはずで、肝心の信虎が鞍上(あんじょう)で生欠伸(なまあくび)を繰り返し、しっかりと手綱を握っていなかった。愛駒もその不自然さを感じ、人の歩みほどの疾(はや)さでしか進まない。
 それを見かねた土屋昌遠(まさとお)が振り向きながら声をかける。
「御屋形様、大丈夫にござりまするか?」
「……ああん?」
 信虎が眠そうな目つきで聞き返す。
「だいぶ、お辛そうに見えまするが」
「……ああ、眠くてかなわぬ。少々、吞みすぎたか」
 欠伸をしながら、信虎が首を振る。
「昌遠、話の相手でもせよ。このままでは鞍から落ちそうだ」
「承知いたしました」
 土屋昌遠は馬を下げ、主君に轡(くつわ)を並べる。
「されど、三保(みほ)の浦は絶景であったな。今度はあそこで歌会を開きたいのう。晴れた日の三保松原から眺める富士御嶽(みたけ)ほどの絶景は、この日の本にも二つとはあるまいとは、よく言うたものだ。まさに歌を詠むためにあるような景色であった」
 この日の午前(ひるまえ)、甲斐へ戻るため駿府の今川館を出た信虎が、急に三保の浦へ行きたいと言い出した。
 あまりに快晴だったので、三保松原から富士御嶽を眺めながら酒でも嗜みたいと思ったのである。急遽(きゅうきょ)、家臣に酒肴(しゅこう)の用意をさせ、わざわざ清水湊(しみずみなと)から三保の浦へと出向く。
 そこは思った通りの絶景だった。 
 ゆるやかな弧を描く汀(みぎわ)が広がり、駿河湾の白波が真砂(まさご)を洗う。その潮騒に合わせた舞でも踊るかの如く、大枝をくねらせた海松が幾千を数えるほど浜辺に立ち並んでいた。
 古(いにしえ)より「天女も見とれ、羽衣を忘れる」という逸話が残るほど見事な松原である。
 そして、雄大な海澨(かいぜい)の奥には、日の本一の霊峰がくっきりと屹立(きつりつ)していた。
 天からは清々しい光が燦々(さんさん)と降り注ぎ、潮の香に日向(ひなた)の匂いが混じり合い、海のない国に育った信虎の気分は昂じ、盃を呷(あお)る手が止まらなくなる。帰還の予定も忘れ、即興の歌をいくつか吟じた後、あまりにも吞みすぎたため不覚にも寝入ってしまった。
 その姿を見て、護衛のために嚮導(きょうどう)した今川の将兵もさすがに呆(あき)れ返っていた。
 途中で土屋昌遠に起こされ、渋々ながら三保の浦を後にした時には、すでに未(み)の刻(午後二時)を過ぎていた。
 それから、のろのろとした帰途が続き、日没を迎えてしまう。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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