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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)22 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 信虎が欠伸を嚙み殺しながら話し続ける。
「……偉大なる京の公方、鹿苑院義満(ろくおんいんよしみつ)様が富士遊山と称し、東国の仕置をなさるために陣を構えたのが、かの三保の浦だ。駿府はやはり風雅に恵まれておる。ふあぁ……。甲斐もそうならねばならぬ。信濃(しなの)を掌中に収めてな」
「さようにござりまするな」
 そう答えながら、土屋昌遠はまったく別のことを考えていた。
 ――御屋形様は遅くなったならば、身延山(みのぶさん)の久遠寺(くおんじ)辺りで御一泊なさると仰せになられたが、これではとうてい辿(たど)り着けぬ。その手前で休める場所を探さねばならぬ。とすれば、万沢の先の南部宿あたりか。
 土屋昌遠が信虎に進言する。
「御屋形様、だいぶ、お疲れと存じまする。久遠寺を目指せば、夜更け過ぎにもなりかねませぬので、その手前で宿を取ってはいかがにござりましょう」
「……ああ、馬が辛い。やはり、輿(こし)にすればよかったな」
「はい。手配りが足りず、申し訳ござりませぬ」
「休むのはよいが、新府に早馬を飛ばし、明日は塗輿(ぬりごし)を用意させよ」
「承知いたしました。ならば、今宵は南部宿に御一泊ということでよろしゅうござりましょうや?」
「南部宿?……あのような処に泊まれる場所などあったか?」
「旅籠(はたご)などがある宿場にござりまする。御屋形様には御不満となるやもしれませぬが、最善の宿を探しますゆえ、どうか、ご容赦を」
「このまま鞍上にいるよりはましであろう。仕方がない、よしなにいたせ」
「御意!」
 土屋昌遠は内心、ほっとしながら、隣にいた柳沢信興(のぶおき)に声をかける。
「われらが万沢に入ったならば、そなたは数騎を率いて先に南部宿へ行き、御屋形様をお泊めできそうな宿を探せ。寺社の類でも構わぬ」
「承知いたしました」
 柳沢信興が頷いた。
 林中の暗闇に潜んだ跡部信秋が、一連の会話に聞き耳を立てていた。
 ――御屋形様が三保の浦に寄道なされたため、大幅に帰還が遅れたようだ。おそらく、御酒を召し上がりすぎたのであろう。駒の歩みが異様に遅い。ここからならば、半刻(一時間)ぐらいで、万沢へ到着するはずだ。すぐに知らせねばならぬ。
 跡部信秋は暗闇の中を素早く移動し始める。
 信虎の一行は相変わらず常歩よりも遅い駒の歩みで進む。辺りの闇はいよいよ深まり、列をなした松明の焔だけが揺れていた。
 万沢の陣に戻った跡部信秋は信方に報告する。
「御屋形様の御一行を発見いたしました」
「今、どの辺りか」
「小葉山(こばやま)を越えた辺りかと」
「ならば、四半刻(三十分)でここへ着くな」
「いいえ、御屋形様が御酒を過ごされましたせいか、駒の歩みが異様に遅うござりまする。おそらく一刻ほどはかかるかと」
「まことか」
「はい、土屋殿が南部宿での御一泊をお勧めしていたぐらいゆえ」
「であらば、お出迎えの支度をしておいた方がよいな」
「ええ、皆、総出で」
「よし。若にお伝えしてくる」
 信方は踵を返し、幔幕内へと向かう。
 晴信は帟 (ひらはり)の下で床几(しょうぎ)に腰掛け、眼を瞑(つむ)っていた。
 隣には、緊張した面持ちの信繁がおり、甘利虎泰が警護役として付き添っている。  
「火急の件にて、御免……」
 幕の外から響いてきた声で晴信が眼を開くと、険しい表情の信方が入ってくる。
 その面持ちを見て、晴信は時がきたことを悟った。
「一里ほど先へ物見に出ていた跡部が戻ってまいりました。御屋形様が小葉山を越えたそうにござりまする。間もなく、こちらに到着なさりまする」
「わかった」
 晴信は引き締まった顔で立ち上がる。
「信繁、参るぞ」
「はい、兄上」
 信繁も弾かれたように床几から立った。

 


 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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