信虎が欠伸を嚙み殺しながら話し続ける。 「……偉大なる京の公方、鹿苑院義満(ろくおんいんよしみつ)様が富士遊山と称し、東国の仕置をなさるために陣を構えたのが、かの三保の浦だ。駿府はやはり風雅に恵まれておる。ふあぁ……。甲斐もそうならねばならぬ。信濃(しなの)を掌中に収めてな」 「さようにござりまするな」 そう答えながら、土屋昌遠はまったく別のことを考えていた。 ――御屋形様は遅くなったならば、身延山(みのぶさん)の久遠寺(くおんじ)辺りで御一泊なさると仰せになられたが、これではとうてい辿(たど)り着けぬ。その手前で休める場所を探さねばならぬ。とすれば、万沢の先の南部宿あたりか。 土屋昌遠が信虎に進言する。 「御屋形様、だいぶ、お疲れと存じまする。久遠寺を目指せば、夜更け過ぎにもなりかねませぬので、その手前で宿を取ってはいかがにござりましょう」 「……ああ、馬が辛い。やはり、輿(こし)にすればよかったな」 「はい。手配りが足りず、申し訳ござりませぬ」 「休むのはよいが、新府に早馬を飛ばし、明日は塗輿(ぬりごし)を用意させよ」 「承知いたしました。ならば、今宵は南部宿に御一泊ということでよろしゅうござりましょうや?」 「南部宿?……あのような処に泊まれる場所などあったか?」 「旅籠(はたご)などがある宿場にござりまする。御屋形様には御不満となるやもしれませぬが、最善の宿を探しますゆえ、どうか、ご容赦を」 「このまま鞍上にいるよりはましであろう。仕方がない、よしなにいたせ」 「御意!」 土屋昌遠は内心、ほっとしながら、隣にいた柳沢信興(のぶおき)に声をかける。 「われらが万沢に入ったならば、そなたは数騎を率いて先に南部宿へ行き、御屋形様をお泊めできそうな宿を探せ。寺社の類でも構わぬ」 「承知いたしました」 柳沢信興が頷いた。 林中の暗闇に潜んだ跡部信秋が、一連の会話に聞き耳を立てていた。 ――御屋形様が三保の浦に寄道なされたため、大幅に帰還が遅れたようだ。おそらく、御酒を召し上がりすぎたのであろう。駒の歩みが異様に遅い。ここからならば、半刻(一時間)ぐらいで、万沢へ到着するはずだ。すぐに知らせねばならぬ。 跡部信秋は暗闇の中を素早く移動し始める。 信虎の一行は相変わらず常歩よりも遅い駒の歩みで進む。辺りの闇はいよいよ深まり、列をなした松明の焔だけが揺れていた。 万沢の陣に戻った跡部信秋は信方に報告する。 「御屋形様の御一行を発見いたしました」 「今、どの辺りか」 「小葉山(こばやま)を越えた辺りかと」 「ならば、四半刻(三十分)でここへ着くな」 「いいえ、御屋形様が御酒を過ごされましたせいか、駒の歩みが異様に遅うござりまする。おそらく一刻ほどはかかるかと」 「まことか」 「はい、土屋殿が南部宿での御一泊をお勧めしていたぐらいゆえ」 「であらば、お出迎えの支度をしておいた方がよいな」 「ええ、皆、総出で」 「よし。若にお伝えしてくる」 信方は踵を返し、幔幕内へと向かう。 晴信は帟 (ひらはり)の下で床几(しょうぎ)に腰掛け、眼を瞑(つむ)っていた。 隣には、緊張した面持ちの信繁がおり、甘利虎泰が警護役として付き添っている。 「火急の件にて、御免……」 幕の外から響いてきた声で晴信が眼を開くと、険しい表情の信方が入ってくる。 その面持ちを見て、晴信は時がきたことを悟った。 「一里ほど先へ物見に出ていた跡部が戻ってまいりました。御屋形様が小葉山を越えたそうにござりまする。間もなく、こちらに到着なさりまする」 「わかった」 晴信は引き締まった顔で立ち上がる。 「信繁、参るぞ」 「はい、兄上」 信繁も弾かれたように床几から立った。