よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  二十二

 武田勢が小笠原長時を撃退した諏訪郡の茅野から、南西に走る杖突(つえつき)街道を六里半(約二十六`)ほど行ったところにひとつの城がある。
 上伊那(かみいな)郡高遠(たかとお)の月蔵山(つきくらやま)に築かれた兜山(かぶとやま)城、別名を高遠の本城ともいう。 
 この城の主である高遠頼継(よりつぐ)を、一人の武将が訪ねていた。
「信濃守殿、先日の戦、詳細をお聞きになりましたか?」
 同じく上伊那郡の箕輪(みのわ)にある福与(ふくよ)城々主の藤澤(ふじさわ)頼親(よりちか)だった。
 その問いに、高遠頼継は冷笑を浮かべながら答える。
「小笠原長時が万にも及ぶ兵を揃え、勇んで甲斐との国境(くにざかい)まで出張っておきながら、たった一晩で武田に撃退されたとか。まったく口ほどにもなし」
「それに荷担した諏訪家も赤恥じゃ。しかも、頼重はわれらに一言の相談もなく、小笠原との和睦を進め、勝手に戦を呼び込んだ。われらをないがしろにするから、さような無様を晒(さら)すのだ。ざまをみよ」
 憤懣(ふんまん)やるかたないという面持ちで藤澤頼親が言う。
「頼重如きの器量では、最初からこうなることはわかっていた。どこまでも己の分をわきまえぬ呆気者(うつけもの)よ」
 高遠頼継は諏訪頼重を見下すような言葉を吐く。
 この漢(おとこ)は諏訪家の庶流である高遠家の現当主だった。
 高遠家は文明(ぶんめい)十四年(一四八二)に諏訪一門の内訌(ないこう)が起こった際、惣領(そうりょう)家から離反して対立を続けたが、永正(えいしょう)十五年(一五一八)に頼継の父である高遠満継(みつつぐ)が諏訪頼満(よりみつ)に降伏させられ、従属せざるを得なくなった。
 そして、藤澤頼親もまた諏訪大社大祝(おおはうり)家(神主家)の分流に生まれている。
 文明の内訌が起きた時、藤澤家は諏訪惣領家に与力し、小笠原政秀(まさひで)と通じた高遠継宗(つぐむね)と戦っている。
 しかし、諏訪頼満が一門を統一してからは、庶流として冷遇されるようになり、同じく末席に追いやられた高遠頼継と急接近した。
 今では二人とも当代の惣領、諏訪頼重と反目するようになっていた。
「それにしても、驚くべきは武田晴信ではないか」
 高遠頼継が眉をひそめながら言葉を続ける。
「少し前までは、武田信虎(のぶとら)があの者を廃嫡するのではないかという風聞がまことしやかに囁(ささや)かれていた。それほど愚鈍な嫡男だとな。われらの耳にまで届いていたのだから、あながち根も葉もなき戯言(ざれごと)ではなかったのであろう。されど、蓋を開けてみれば、家中をまとめて父親を隠居させたという。われらが手を焼いた、あの甲斐の餒虎(だいこ)をだぞ。こうなると実際は何が真実であったのか、皆目見当もつかぬ」
「まったくもって。しかも、以前よりも家臣たちが結束していると聞きました。武田信虎の隠居には耳を疑うたが、さらに驚いたのは、あの餒虎の落ち着き先が駿府(すんぷ)だということ。それは代替わりをしても、武田と今川(いまがわ)の同盟が何ら変わりなく存続するということを意味しておりまする。つまり、今川義元(よしもと)も武田晴信の器量を認めたということに他ならぬ。いったい、いかような手を使うたのやら……」
 藤澤頼親も顔をしかめながら呟(つぶや)く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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