よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 しかし、この時すでに頼重の使者を装った守矢頼真の手の者が茶臼山本城に禰々(ねね)と寅王丸を迎えに行き、上原(うえはら)城へと身柄を移していた。
 二人はそのことにまったく気づいていなかった。
 そこへ伝令が駆け込んでくる。
「御注進! 火急にて、お伝えしたき件が!」
「なんであるか、騒々しい」
 諏訪頼重が苛立ちを露(あら)わにする。
「申し訳ござりませぬ……。されど、南西の方角より不審な軍勢が近づいておりまする!」
「南西!?……南東の間違いであろう」
「いえ、杖突(つえつき)街道の方角、南西にござりまする」
 伝令の言葉を聞き、頼重と矢嶋満清が顔を見合わせる。
「は、旗印は?」
 頼重の問いに、伝令は困ったような顔で答える。
「それが……梶(かじ)の葉……ではないかと。……見間違いかもしれませぬが」
 諏訪家の紋は「三ッ葉根あり梶の葉」である。
 当然のことながら、諏訪家の縁者たちも梶の葉の旗印を使っていた。
「た、高遠(たかとお)か!?」
 頼重と矢嶋満清が再び顔を見合わせる。
「……おのれ、あの慮外者(りょがいもの)めが、武田に寝返ったのか」
 歯嚙(はが)みする頼重に、不安そうな面持ちで矢嶋満清が訊く。
「も、もしも、高遠頼継(よりつぐ)殿が裏切ったのならば、武田と申し合わせて、われらを挟撃するつもりやもしれませぬ。頼重殿、いかがいたしまするか?」
「敵の狙いは野戦陣への夜討朝駆(ようちあさがけ)か。高遠の軍勢に背後へ廻り込まれれば退路がなくなる。いったん、上原城へ退くぞ」
 蒼白(そうはく)になった頼重が撤退を決めた。 
「の、退陣(のきじん)じゃ……」
 矢嶋満清が伝令に命じる。
「……寝ている者がいたら叩き起こし、上原城へ向かうぞ。急ぎ、触れ廻れ!」
 まるで尻でも蹴り上げられたかのように、伝令の者が走り去る。 
 高遠頼継の寝返りを悟った諏訪勢は野戦陣を捨て、慌てて上原城へ向かった。
 しかし、そこでも異変に気づく。
 城門は固く閉ざされており、伝令の兵がいくら叩いても返答がない。
 そのことが諏訪頼重に伝えられ、当人自らが城門に近づき中に呼びかけたが、何も変わりなかった。
「……おのれ、守矢が裏切ったのか!?」
 そう思っても、確かめる術(すべ)はなかった。
「おい、城門へ火を放て! われらは桑原(くわばら)城へ向かうぞ!」
 諏訪頼重は足軽頭に命じてから、一里(四`弱)ほど北西に離れた桑原城へ向かう。 そして、陽が昇り始めた頃、やっと城の中に逃げ込み、城門を固く閉ざした。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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