よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「もしも、まだ北条家との蜜月が続いておれば、そなたを氏康(うじやす)殿の下に仕官させることぐらいはできたのだがな。河東(かとう)の争い以来、それもままならぬ。すまぬな、菅助」
「……いいえ」 
「そなたは、これからどうするつもりだ。諸国を遍歴して、どこか気になる君主はいたか」
「いなかった……という訳でもありませぬ」
「いっそ、村上(むらかみ)義清(よしきよ)あたりの下に仕官してみるというのはどうか。さすれば、ここからでは計り知れぬ北信濃や美濃(みの)などのこともわかる。それを知らせてくれれば、当家や武田のためにもなるのだが」
 雪斎は暗に己の間諜として他家へ潜り込んでくれないかと持ちかけていた。
「なるほど。されど、それならば、村上家などという間怠(まだる)いことをせずに、武田家へ仕官いたしとうござりまする」
 菅助は独特の笑顔で答える。
「武田家?……そなたが諸国を巡る中で、一番気になったのが武田晴信だということか?」
「さようにござりまする。前にも一度、雪斎様に申し上げましたが」
「いかなる理由か、再度、聞かせてくれぬか」
「はい。それがしが偶然、晴信殿を見かけたのは、まだ惣領をお嗣(つ)ぎになる前のことでありました。その頃、甲斐の新府から漏れ聞こえてきたのは、もっぱら晴信殿が廃嫡されるという風聞でありました。信虎(のぶとら)殿が弟の信繁(のぶしげ)殿を次の惣領に考えていると。さような最中、晴信殿は甲斐が大きな洪水の被害を受けたということで、釜無川(かまなしがわ)という暴河の治水の要になりそうな竜王鼻(りゅうおうばな)という場所の検分を行うておりました。最初は何を暢気(のんき)なことをしているのやらと思いました。普通ならば、己の廃嫡という風聞に怯(おび)え、地味な内政どころではないはず。されど、実にしっかりとした治水術の話をしており、しかも真剣に甲斐周辺から洪水の被害を取り除こうとなされておりました。そんな者は普通、ただ現実から逃げ廻るだけの莫迦者(ばかもの)か、あるいは万に一つ、途轍(とてつ)もない器量人であるということしか、あり得ませぬ。いずれにしても、凡庸ではありますまい。それがしは不思議な印象を心に刻まれました。そうこうしているうちに、無血の代替わりを成功させ、晴信殿が惣領を嗣がれたと聞きました。しかも、父君を駿府で隠居させるとは……。もちろん、それを支えた重臣たちの力もありましょうが、そのことだけでも、ただ現実から逃げ廻るだけの莫迦者ではないということが明白になりました。ならば、逆に相当な器量の持ち主ではないか、と考えるに至った次第にござりまする。それゆえ、仕官が許されるならば、武田家と申し上げました」
 菅助は何の外連(けれん)もなく己の心境を語り終えた。
「なるほど。さようなことがあったか」
 雪斎は何かを思案するように髭をしごく。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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