よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)15

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「小笠原長時が単独で西から諏訪へ攻め寄せられるほど肝が据わっているとは思えませぬ。しかも武田家に出鼻を挫(くじ)かれ、敗走させられた苦い記憶が、小笠原にはまだ残っておりましょう。村上義清は東西からの挟撃を望むかもしれませぬが、長時は合流しての総攻めを望むのではありませぬか」
「そなたは小笠原長時が深志城から内村街道を使い、村上勢と合流すると読んでいるのか?」
「はい。さようにござりまする」
「ならば、大門街道と内村街道が合流する地点は腰越(こしごえ)辺り、そこから大門峠を越えて上諏訪を目指すということになるか」
「ご明察にござりまする」
「うぅむ、なるほど……」
 信方は周囲の地図を思い浮かべながら、禰津元直の読みを理解した。
 上諏訪から北東に延びる大門街道は、小県や埴科(はにしな)へ抜ける要路である。村上義清の支城となった砥石城から上諏訪まで南下するには、十六里(六十四㌔)ほどの行程だった。
 そして、この大門街道は腰越という場所で西へ繋がる内村街道と交わっている。合流地点の腰越から十一里(四十四`)ほど西へ向かえば、その先に小笠原長時の支城である深志城があった。
 逆に、松本平の深志城を南下すれば、下諏訪まで七里(二十八㌔)ほどで到達できた。
 もしも、村上義清と小笠原長時が武田勢の兵力分散を狙うならば、東と西に分かれて上諏訪と下諏訪を挟撃するという策を立てるはずだった。
 しかし、禰津元直は小笠原長時が挟撃の策を回避すると読んでいるようだ。
 ――もしも、この漢が言うように、村上と小笠原の兵が合流し、東から上諏訪へ進軍してくるならば、われらは機先を制して大門峠を押さえ、有利な高所で迎え撃つという策が取れる。されど、東だけに兵力を集中している時に挟撃されたならば、下諏訪だけでなく、われらの背後も危うくなるであろう。しかも、南には高遠の軍勢も控えている……。
「禰津殿、小笠原長時が挟撃の策を回避するという読みは、かの者が弱腰であるという理由以外に、何かしらの根拠があるのであろうか?」
 信方の問いに、禰津元直は真剣な面持ちで答える。
「われわれが探りましたところによれば、小笠原が深志城に集めたのは五千に満たぬどころか、三千そこそこの兵と見ておりまする。その程度の兵力で挟撃の一翼を担い、一度敗れている武田家と互角に戦えるとは、到底思えませぬ。ならば、小笠原長時が考えることはひとつ。村上頼みの戦(いくさ)をすることに他なりませぬ。それゆえ、東から上諏訪へ総攻めするという名分をもって村上勢に合流すると読みました」
「なるほど」
「本来ならば、義弟である藤澤頼親の福与城を奪還してやるために、西から攻め上りたいのでしょうが、長時はそれほどの胆力も兵も持ち合わせておらぬのではありませぬか。それほど、前回の敗戦が大きかったということ」
「実に興味深い読みだ。して、この話をわが御屋形様に伝えた後、そなたは何を望まれるか?」
「微力ながら、われら禰津の一統を陣の端にお加えいただければ幸いにござりまする。もしも、さらに何か策をお望みならば、われらの禰津城に武田家の一隊をお入れになってはいかがでありましょう。村上勢が大門街道に入ってしまえば、腰越までの退路は一本道。眼前から武田家の軍勢が現れ、がら空きとなった背後からも武田菱(びし)の旗幟(はたのぼり)が見えたならば、どうするでありましょうか」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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