よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)18

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 長く聞いていると泪を零(こぼ)してしまいそうな気がしたので、晴信は奥歯を嚙みしめ、枯木のようになった妹の顔に静かに白布を戻した。それから、気配を殺すように、無言で立ち上がる。
 そんな兄の姿を、信繁が驚いたように見上げる。
「あ、兄上……」
 眼を潤ませ、鼻声で言葉を続ける。
「……もう少し……禰々と」
「いや、そなたが一緒にいてやってくれ、信繁」
「されど……」
「頼む。その方がいい」
 それだけを答えてから、晴信は薬師の方に向き直る。
「禰々の最後の様子を聞きたい。別の室へ移ろう」
「……承知いたしました」
 薬師も立ち上がり、晴信の後についていった。
 晴信は己の室に入り、二人きりで話を聞き始めた。
 ここ数月の妹の容態を話し終え、薬師が苦しそうに言葉を絞り出す。 
「……お食事にほとんど手をつけず、最後の方はお水さえも、お口にされませんでした。人は生きる気力を失うと、薬どころか、最も大事な食さえも拒むようになりまする。……禰々様は……禰々様はひと月ほど前から、生きる気力を自ら捨て去るように……身罷(みまか)られましてござりまする。あれは、まるで入滅……」
「さようか……」
 眼を瞑(つぶ)り、晴信が俯(うつむ)く。
 ――やはり、禰々と話をしたのが、きっかけとなってしまったようだ……。おそらく、己に断食を課すような死を選んだのは、この身に対する抗議だったのであろう。なんということだ……。
 今さらながら妹の死の重さを感じていた。
『おまえは禰々の命と引き替えに諏訪(すわ)を手に入れたのだ』
 そんな己の声が脳裡(のうり)に響く。
 ――されど、その重圧から逃げるわけにはいかぬ。禰々の死に関して罪があるとしても、それを背負うて前へ進まねばならぬのだ。残った怨念は、この一身で受け止める。
 晴信は覚悟を新たにした。それは武田家の惣領(そうりょう)としての決意でもあった。
 天文(てんぶん)十二年(一五四三)一月十九日、諏訪禰々は病による衰弱で逝去した。
 父母や幼い遺児の代わりに晴信が喪主を務め、甲斐の新府で葬儀が行われ、妹は荼毘(だび)に付された。
 その間も、晴信は周囲に泪ひとつ見せなかった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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