第三章 出師挫折(すいしざせつ)18
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
初七日が過ぎ、四十九日の法要が済んだ夜、晴信は弟の信繁を室へ呼ぶ。
「本日は満中陰(まんちゅういん)だ。禰々の行先を祈ってやりたい」
晴信が言った満中陰とは、まさに四十九日のことであり、死者が初七日から七日ごとに受けた裁きにより来世の行先が決まる日と言われていた。
「はい。わかりました」
「少し付き合うてくれ」
瓶子(へいじ)と盃を取り出してから、晴信は室の襖(ふすま)を全開にする。
暦が弥生(三月)に入り、少し寒さが緩み始めたとはいえ、まだ甲斐の空気はしんと冷えきっている。
その澄んだ夜空に、くっきりと十日夜月(とおかんやのつき)が浮かんでいた。
「月も綺麗だ。禰々を送るために二人だけで吞もう。不謹慎だと思うか?」
晴信は二つの盃に酒を注ぐ。
「……いいえ」
信繁は俯き加減で答えた。
「禰々の成仏のために」
そう言いながら、晴信は一気に盃を干す。
信繁もそれにならった。
「禰々には極楽浄土へ向かってもらいたい。地獄へ行かなければならぬのは、この身だからな。それだけを願っている」
晴信は今にも哭き出しそうな顔で笑ってみせる。
「……兄上」
「ずいぶんと薄情な兄だと思うたであろう、信繁?」
「……いえ」
信繁は思わず兄の顔から眼を離して俯く。
「妹の死を目の当たりにしても、泪ひとつ零さず、遺骸に寄り添いもせぬ。葬儀や法要の最中、皆もそう思ったであろうな。腹違いの妹だから、泪ひとつ流さず、あれほど非情でいられるのだ、と。されど、そう見えていたならば、それが余の本望だ。だから、あえて情を殺し続けた」
兄が他の者には決して明かさない心情を吐露し始めたと気づき、信繁は顔を上げる。
「おかしいと思うかもしれぬが、それはこの身が己に課した決め事だ。父上と万沢(まんざわ)の里で相対した、あの夜からな。決して人前では泪を見せぬと決めたのだ。それが父上を隠居させてまで武田家の惣領となった余の覚悟だ。だから、どれほど大切な者を失うても、周囲に家臣たちがいる限り、泪を見せるつもりはない。それが他人にとっては無意味でも、この身にとっては大事なことなのだ」
「兄上……」
「もう少しだけ黙って聞いてくれ、信繁。この話だけは、板垣(いたがき)にもできぬ」
晴信の言葉に、信繁は小さく頷く。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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