よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)18

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「おそらく、禰々は余を恨みながら死んでいったのだと思う。この身が頼重(よりしげ)殿を自害に追い込んだことも感づいていたのだろう。だから、その怨念を余の心に刻みつけ、呪い殺してやるという一念で食を断ち、水まで断つことを選んだ。薬師は禰々が自ら生きる気力を捨て去ったようだと言っていた。まるで入滅だともな。それはまさしく余のせいだろう。だから、禰々は自死したのではなく、余が殺したのだ。仏道において自死は地獄行きの罪だが、死に追いやった者がここにいるのだから、禰々には何の罪もない。成仏して極楽浄土へ行くことができるはずだ。この身はそう願い、そう信じている。死に追いやった者が、地獄へ行けばいいのだから。本日まで、ずっと、さように考えてきた。それでも、禰々は余を許してはくれまい。だが、その怨念から逃げるつもりはないのだ。武田家の惣領である限り、この身は屍(しかばね)を踏み越えてでも前へ進むつもりだ。それでも、満中陰の今宵だけは禰々の来世の行先が安寧の地であることを祈ってやりたい。身勝手な兄だと思われても、その思いだけは本心なのだ。信じてくれ、信繁」
 両手で顔を覆い、晴信は何度か首を振る。
 信繁は身動(みじろ)ぎもせず、兄が初めて見せる苦悩を受け止めようとしていた。
「それがしに疑いなどありませぬ、兄上」
「……この身は、禰々が腹違いの妹などと思うたことはないし、母上もわれらを分け隔てなく育ててくださったはずだ。されど、それを禰々に伝えた時、かえってその事が重荷だったと言われたのだ。禰々は諏訪へ嫁いで初めて自由になれたとも申した。やっと、まことの居場所が見つかったと。それが本心であったのだろう。たとえ頼重殿が災いの種を蒔(ま)いたのだとしても、この身が妹の倖(しあわ)せや生きがいを奪ったことに変わりはない。そう思うと、あまりにも禰々が不憫(ふびん)で、己の覚悟さえ揺るぎそうになる……」
「兄上……」
「……そなたにこうして本音を話していると、声を上げて哭(な)きたくなってしまう。屍を踏み越えてでも前へ進む、などという言葉は、己が弱い己に対して張った虚勢にすぎぬ。このひと月半もの間、ずっと思うていた。こんなことならば、父上の代わりに……」
「兄上、それ以上はお止(や)めくだされ! もう、わかりました」
 信繁が叫ぶ。
 思いの外、強い口調で窘(たしな)めた弟に対し、晴信は口を噤(つぐ)む。
「この後は静かに禰々を送ってやりましょう」
 信繁は瓶子を持ち上げ、晴信と己の盃に酒を注ぐ。
 それから、二人は月を見上げ、しばらく黙って酒を酌み交わした。 
 胸に去来する悲しみは、それぞれに違ったとしても、この兄弟が互いを思う深さは同じであった。
「……もう、こんな弱音を吐くのは止めるよ」
 晴信が呟く。
「いいえ、兄上。この身にしか聞かせられぬことがあるならば、弱音であろうと何であろうといつでもお話しくだされ。それで兄上のお気持ちが少しでも晴れるのならば」
「頼もしいな、信繁」
「いいえ。まだ、それぐらいのことしかできませぬ」
 少し照れくさそうに笑い、信繁は晴信に一献を傾けた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number