第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
同時に、常磐から言われた事柄を想い出していた。
――このところ、お忙しかった若が女人と接するような機会は、そんなに多いはずがない。もしも、その出会いが諏訪だとするならば、あの娘しかおるまい。されど、よりによって、なにゆえ、あの者を……。
信方は麻亜の冷たく透き通るような美貌を思い浮かべる。
――もしも、あの娘だとするならば、若とて報われぬ恋慕であることは重々承知なさっているはずだ。相手は武田家に自害させられた頼重殿の実子なのだから。その上での煩悶か?……どうする、この場で相手の名を確かめておくべきか? それとも、まだ知らぬ振りをすべきか?
酸いも甘いも嚙み分けてきた重臣でさえ判断に迷うところだった。
「一目惚れ……」
振り向いた晴信が困ったような表情で呟く。
「……そうか、これが一目惚れなのか」
――若の御婚姻はすべて信虎(のぶとら)様がお決めになったこと。これまで御自身で女人に想いを寄せるということはなかったのであろう。初恋慕が一目惚れで、しかも相手が曰(いわ)く付きの娘とは、なんという因果であるか……。
信方にもやっと晴信の異変に関する理由がわかった。
「あえてお訊ねいたしまする。若の一目惚れのお相手は、あの麻亜という娘にござりまするか?」
覚悟を決めて発した問いだった。
「……そのようだな」
晴信は他人事のように呟く。
――もしや、これからお会いになるつもりにござりまするか?
その問いが思い浮かぶが、信方は口に出すことができなかった。主君の心中が痛いほどわかったからだ。
「……されど、あの娘に会いに来たというわけではない。室に閉じ籠もって、うじうじしているより、馬の背に跨がっていた方がすっきりするのではないかと思うただけだ。そなたが案じているようなことは、この身もわきまえている」
晴信は心配そうな顔をしている傅役(もりやく)に向き直る。
「少し休んでから新府へ帰る」
「ならば、信房の分も床を用意させまする。支度が揃うまで、こちらで寝酒でも召し上がってはいかがにござりまするか」
「そうさせてもらおうか。信房に相伴せよと伝えてくれ」
「わかりました。すぐに膳を運ばせまする」
信方は気を取り直し、階下へ向かう。
代わりに、教来石信房と小姓たちが酒肴(しゅこう)の膳を運んできた。
二人は差しつ差されつ酒を吞み、明け方に寝床につく。晴信は緊張がほぐれたせいか、すぐに深い眠りに引き込まれた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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