よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)21

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

『塩尻に小笠原勢の影があれば、疾風迅雷の如(ごと)く武田家と今川家の旗幟(はたのぼり)が林立する』
 晴信が定めた軍略の要諦は、塩尻宿の者たちにそのことを知らしめることだった。
 ――まずは、小笠原の拠点である熊井(くまい)城を攻め落とす。
 塩尻宿の北西には、小笠原勢が籠もる熊井城とその出城である南熊井砦がある。
 晴信はそこを一気に叩くつもりだった。
 己の描いた策に専念すれば、余計なことも考えなくて済み、戦いに没頭することで晴信の心気は充実した。 
 天文(てんぶん)十四年(一五四五)六月十三日、下諏訪の岡谷城を出立した武田勢の本隊は、疾風の勢いで塩尻峠を越え、一気に塩尻宿の手前まで進軍する。
 前日に伊那街道の辰野宿で今川の援軍と合流した信方の別働隊も、一気に洗馬(せば)宿を越えて塩尻宿へ迫った。
 両軍はその威容を見せつけるように、あえて足を止めて旗幟を靡(なび)かせる。
 驚いたのは、塩尻宿の民だった。
 忽然(こつぜん)と現れた大軍が掲げる旗幟には、武田菱(びし)だけでなく、今川家の二引両(にひきりょう)の紋も交じっていたからである。宿場は騒然となり、家々は戸締まりをして恐れ戦(おのの)いていた。
 晴信は塩尻宿の民を怯(おび)えさせないように、そこからはゆっくりと軍勢を進め、北東にある南熊井砦へ向かう。信方の別働隊と今川勢の援軍も、それに歩調を合わせた。
 美装の軍勢が乱妨狼藉(らんぼうろうぜき)も働かず、整然と熊井城の方角へ向かったことで、宿場の者たちは胸を撫(な)で下ろした。
 その話を聞きつけたのか、南熊井砦にいた小笠原勢の斥候隊は、すぐに熊井城へ撤退する。こうして出城は難なく落ちた。
 晴信はそこに陣を布(し)き、物見を放ち、熊井城の様子を窺(うかが)う。
 小笠原勢は城門を固く閉ざし、やはり、様子を窺っていた。
 翌日、武田勢は躊躇(ちゅうちょ)なく兵を寄せ、熊井城を囲む。
 すると、意外なことが起こる。
 城内に人気はなく、静まり返っていた。
 晴信は跡部(あとべ)信秋(のぶあき)に忍びの斥候を放つことを命じる。
 すると、間もなく熊井城が蛻(もぬけ)の殻であることがわかった。
 自落である。
 小笠原勢は籠城もせず、一矢(いっし)を報いることもなく、夜中のうちに松本平へと逃げ帰ったようだ。
 武田勢は今川の援軍とともに熊井城へ入った。
「若、なんとも拍子抜けの結末でありましたな」
 信方が苦笑しながら晴信に言う。
「ああ、そうだな。……されど、一人の犠牲もなく、小笠原を塩尻から追い出したことを素直に喜ぶべきであろうな」
「確かに」
「足労をかけた今川家の将兵たちは、手厚く労(いたわ)ってくれ。必要とあらば、塩尻宿で酒肴(しゅこう)など見繕い、届けさせてもよいぞ。駿府(すんぷ)の者たちは舌も肥えているであろうから、銭に糸目はつけなくともよい」
「承知いたしました」
「余は宿場に立てる高札(こうさつ)の文案を考えておく。できあがったならば、早馬で駿府へ届けてほしい。できれば義元殿との連名で出しておきたいからな」
 晴信は真剣な面持ちで言った。
 その顔を見て、信方は安堵(あんど)する。
 ――若の表情が完全に元へ戻っている。だからこそ、あの話をしておくべきかもしれぬ……。諏訪へ戻ってから膝詰めで談判だ。
 そう心に決めた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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