第三章 出師挫折(すいしざせつ)23
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
評定の間から出る際に、信方と原昌俊が短く言葉を交わす。
「若のお顔が完全に元へ戻ったな」
「ああ、よかった」
「いらぬお世話と思うたが、あれで吹っ切れたのであろう」
「結果がよければ、すべてよしだ」
原昌俊が微かに笑う。
「ところで、昌俊。咳気(がいき)の具合はどうだ?」
「薬師(くすし)に苦い良薬をもらい、今のところはなんとか治まっている」
「さようか。軆(からだ)は大事にしてくれ。そなたに倒れられては困るからな」
信方は同輩を労(いたわ)るように背中に手を添えた。
今川家への援軍に関しては、まず駒井昌頼が駿河(するが)との国境に近い本栖(もとす)で今川家臣の高井実広と面会し、日程などの調整をすることになった。
本栖には中道(なかみち)往還が通っており、これは甲駿(こうすん)を結ぶ三つの街道のちょうど中央を走っている。他の二つは西側を走る河内路(かわちじ)と東側を走る若彦路(わかひこじ)である。中道往還は新府の南にある右左口(うばぐち)宿を出口としていることから右左口路とも呼ばれた。
本栖湖を見下ろす烏帽子岳(えぼしだけ)の東には、国境を押さえる要衝の本栖城がある。今回の出陣はこの城を拠点にし、中道往還を使って行われることになるはずだった。
駒井昌頼からの連絡を受け取った今川家の高井実広は隠密裡に本栖城を訪れ、互いの主君が会談する日時について話し合った。
それにより八月十一日に富士宮(ふじのみや)の大石寺(たいせきじ)で会うことが決められた。
大石寺は中道往還の駿河側に位置する日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の総本山であり、今川義元がそこまで出向いてくるという。
晴信は八月九日に主だった家臣と兵を連れて本栖城に入り、翌々日の早朝から大石寺へ向かう。
午(ひる)過ぎに到着すると、義元の軍師である太原(たいげん)雪斎が総門(黒門)の前で出迎えた。
「ようこそお越しくださりました、武田大膳大夫(だいぜんのだいぶ)殿。わが主が待ちわびておりまする。ささ、どうそ、こちらへ」
「お出迎え、感謝いたしまする」
晴信は案内に従い、広い寺内へ入ってゆく。
太原雪斎が肩を並べた信方に話しかける。
「駿河守(するがのかみ)殿、お久しゅうござりまする。お会いするのは、四年ぶりになりまするか」
「あれから、もう、そんなに経ちますか。時が流れるのは疾(はや)い……」
前回、二人が会ったのは、晴信への家督相続が行われた天文十年(一五四一)のことだった。
信方と雪斎の隠れた働きがなければ、無血での移譲はなかったかもしれない。
そういった意味で、互いの主を交えての面会は、二人にとっても感慨深いものがあった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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