よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)24

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ――戦の常道で考えれば、北条家が勝てる見込みはまったくない。それほど、兵数の差がある。万に一つ、起死回生の好機を見つけ、乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負に出たとしても、負ければ一門の滅亡はあり得る。そのような賭けを、普通の惣領ならば選ぶことができぬはずだ。幸いにも、今川家には北条家が滅んでほしくない理由がある。坂東との緩衝にしたいからだ。そこまで見越した上で、どれだけ被害を少なくして相手に矛(ほこ)を収めさせることができるか、そんな駆け引きになるであろう。まさに今、北条氏康の惣領としての真価が問われている。
 晴信の脳裡には、坂東、東海、中部を含む広大な地図が浮かんでいた。
 ――坂東でこれだけの戦模様が広がるとなれば、おのずと様々な場所に余波がくる。当家に関係するとすれば、さしずめ信濃と上野の国境となる佐久辺りか……。
 そう考え、思わず眉をひそめた。
「晴信殿、ずいぶんと険しい顔をなされておる。さては、もう、次の戦をお考えか?」
 義元が探るような視線を向ける。
「いいえ、さようなことは……」
 晴信はぎこちない笑みを作ってみせる。
「されど、こたびの調停は、まことに見事であった。あれほど早く氏康殿が退(ひ)いてくれるとは思うておらなかった。おかげで、兵を損じなくて済みました。そなたの手腕に感服いたしましたぞ」
「いいえ、義元殿のご教授があったおかげにござりまする」
 それは謙遜というよりも、晴信の本音だった。
 軍師である太原雪斎の影響も大きいのだろうが、戦と政を表裏一体と見ている義元の見識は、己よりも遥かに深く広いと感じていた。
 その大局観ともいうべき物事の見方から学ぶところは多い。
「余は、そなたが気に入った。これから、大事なことは直(じか)にやり取りをいたしませぬか?」
「直に?」
「さよう、自筆の書状で。文(ふみ)は苦手であろうか?」
「いや、得手ということもありませぬが、苦手でもありませぬ。大事なことだけでなく、日頃から自筆で書状を交わしましょう」
「それはよい」
 二人は自筆の書状で直接やり取りするという新たな取り決めを行い、互いの関係を一歩進めることになった。
「では、晴信殿。酒肴を用意させるゆえ、ここで祝盃を上げましょう。家臣の方たちも労(ねぎら)いたい」
「お気遣い、かたじけなし」
 晴信は義元の申し入れに笑顔で頷いた。
 今回の出陣で両家はさらに絆(きずな)を深め、盟友として新たな関係へと進む。
 河東の争乱は二ヵ月あまりで終結し、晴信と武田勢は十一月の初旬に新府へ帰還した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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