よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)25

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「ならば、綱成の武者ぶりが、そなたの半分と見立てれば、年を越して踏ん張ることはできるか。まあ、必勝を信じている古河公方(こがくぼう)殿や関東管領殿が、屠蘇(とそ)気分の正月に城攻めをするとは思えぬゆえ、その分を加えておくか。氏康殿が頭(こうべ)を垂れ、粘り強く交渉すれば、鬼美濃が申した三ヵ月ぐらいは戦いが膠着(こうちゃく)するのではないか。少なくとも、余は年内の決着がないと見ている。さらに正月を越してしまえば、月の終わりまではだらだらと囲城が続いてしまう。河越城がどれほどの兵粮(ひょうろう)を貯め込んでいるかわからぬが、逆に八万の大軍の賄いはさほど容易(たやす)いことではない。兵粮をどうするつもりか。関東管領殿はすぐに周囲から調達できると考えるやもしれぬが、そんなに簡単なことであろうか。北条家は大軍の兵粮が不足することを願い、交渉を繰り返すしかなかろう。もしも、この戦が三ヵ月以上長引けば、何か不測の事態が起きるやもしれぬな」
「御屋形様がお考えになる不測の事態とは?」
 原虎胤は眉をひそめながら訊く。
「かくなる状況を、北条家がひっくり返せるとは思わぬが、万に一つぐらい好転する機会はある。あまりに多すぎる兵が、あまりに長く駐屯を続け、あまりの退屈さに士気が落ち、風紀が乱れ始めた時、離反を考える者たちが出ないとも限らぬ。あるいは、そこにつけ込み、調略が仕掛けられることもあるだろう。はたまた、親戚である古河公方に泣きつく振りをし、氏康殿が何とか小田原城だけは残してくれと嘆願するような折衝ができるかもしれぬ。それが受け入れられたとなれば、北条家にとってそれ以上の僥倖(ぎょうこう)はなかろう」
「ああ、なるほど」
「それゆえ、余の答えは鬼美濃、そなたと同じく三ヵ月だ」
 晴信は笑顔で答えた。
「それがしと同じ三ヵ月?……なにやら、狐につままれた気分じゃ」
 原虎胤はしてやられたという表情で頭を掻く。
 一同に小さな笑いが広がった。
 それが収まってから、晴信は真顔に戻って口を開く。
「さて、余が何を申したいかというと、われらは坂東での戦を対岸の火事とは見ずに、注視しながら素早く動きを決めねばならぬということだ。さきほど、北条家の降伏まで三ヵ月と見立てたが、実のところこの戦がどう推移するかわからぬ。それゆえ、われらは常にいくつかの筋読みをし、先手を打たなければならぬのだと思う。本年も残りはあと一ヵ月(ひとつき)半となった。年末までに幾度か評定を開き、皆でこうした筋読みを繰り返し、年明けの評定始めにて今後の方針を決めたい。これからは出来るだけ多くの献策を募るゆえ、誰でも遠慮せずに具申してくれ。合議によって物事の解決策を練り、総意によって方針を決める。決まったならば、各人が己の役割を把握し、皆一丸となって一気呵成に動く。それが余の望む武田一門の姿だ」
 主君が発した新しい指針を理解し、一同は引き締まった面持ちで頷く。
「当家が信濃へ出て行くためには、戦を単なる闘争の場として見るのではなく、政(まつりごと)の駆け引きと表裏一体になった大局として捉えなければならないのだと思う。そのためにも敵と味方の現状を知り尽くさなければならぬ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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