第三章 出師挫折(すいしざせつ)25
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「失礼いたしまする」
信方はうやうやしく礼をしながら室内へ躙(にじ)り入る。
「御屋形様……」
「なんだ、気味が悪いぞ、板垣……」
晴信はいつもと違う傅役(もりやく)の態度にたじろぐ。
「ああ、やはり……。相すみませぬ」
「何か、あったのか?」
「いいえ……。それがしも威儀を糺(ただ)し、御屋形様とお呼びした方がよいかと思うたりしまして」
「……気味が悪いから止めてくれ」
「わかりました」
信方は気を取り直したように言葉を続ける。
「若、実に良い評定でしたな。皆の顔に緊張が走っておりました」
「そうかな……。少し唐突ではなかったか?」
「いいえ、若が申されたいことは伝わっておりました。なにか、新しい武田家というものが見えてきたかもしれませぬ」
「そうなれば、よいのだがな」
「ところで……」
そう言いかけた信方を制し、晴信が自ら心情を吐露する。
「麻亜(まあ)のことならば、忘れたわけではないのだ。されど、それより一門の大事が眼前にあるゆえ、今はそのことを考えるだけで精一杯になっている。されど、少し気が抜けると、やはり、あの者の淋(さび)しげな横顔を思い浮かべている。熱が冷めたわけではない。ただ、急いで答えを求めるのは止めたのだ。それよりも、相手が思いを述べるまで辛抱強く待ち、返答がどうであれ、それを受け入れようと決めた。それが今の余にできる最善だ、と」
「まことにござりまするか?」
「……ああ。正直、女人(にょにん)の考えていることは、まったくわからぬ。板垣、そなたは藤乃(ふじの)の考えていることが、すべてわかるのか?」
「わかるわけがありませぬ。最初はわかるような気がしておりましたが、年々、わからなくなってくる」
「なにゆえ、ここまで違うのであろうな。はぁ、漢同士で話をしている方が楽だ。だから、ただ待つと決めた。相手が動くまで」
「……まったく、困ったものだ。何やら、急に大人になられては、それがしの立場がありませぬ」
信方が愚痴をこぼすように呟(つぶや)く。
「勘弁してくれ、板垣。これでも、悩みがありすぎて落ちこんでいるのだ。大人の振りでもせねば、身が保たぬ」
「さようにござりまするか。では、板垣だけに、その弱音をお聞かせくだされ」
信方の笑顔につられ、晴信も声を殺しながら笑った。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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