第四章 万死一生(ばんしいっしょう)
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「……ところで、三条の御方様のご機嫌は、いかがにござりまするか?」
「太郎の面倒をみていたせいか、御方も機嫌がよかった。そのついでに、太郎が弟を欲しがっていると聞かされた。……少々、たじろいでしまった」
「ほう、太郎様が弟君をと……。やはり、女人は抜かりない」
三条の方の侍女頭(まかたちがしら)である常磐(ときわ)の顔が、信方の脳裡(のうり)に浮かんでいた。
――あの者ならば、太郎様に若と信繁様の素晴らしき絆(きずな)について説き、三条の御方様へ「弟が欲しい」と言わせることも造作なかろう。これは若も戸惑われたであろうな……。
「若、弟君をと言われ、なんとなく照れくさくありませなんだか?」
「……板垣、なにゆえ、それがわかった?」
「わからぬという道理がござりませぬ。夫婦(めおと)というのは、長らく子を挟んで過ごすと、元からの家族のような気持ちになり、まあ、その、夫婦の睦言などを思い浮かべたりするのが照れくさくなりまする。特に、漢はそうなのでありましょう。婚儀の直後にはあった情欲のようなものが時が経つにつれて薄れ、妻とは同じ戦場(いくさば)を踏んだ朋輩(ほうばい)のような気持ちになってしまいまする。それでも、女人は枯れぬ限り、いつまでも女人。漢としての夫を望むようにござりまする。それがわかっていても、やはり、照れくさい」
「その通りだ!」
晴信が眼を見開く。
「別に御方から気持ちが離れたわけではないのだが、閨のことなど考えるのは、なんとも照れくさくてかなわぬ」
「わかりまする。若も三条の御方様とは、すでに十年、連れ添われておりまする。さような思いになってもおかしくはありませぬ」
「板垣、そなたのおかげで、胸の裡(うち)でもやもやしていた思いが晴れた! やはり、余は理で説かれねばわからぬ性分なのだな」
「御心中、お察しいたしまする。それがしも偉そうなことは申せませぬ。未だに女人の気持ちのすべては計りかねまする」
「藤乃は諏訪へ来てから、何か不満を漏らしてはおらぬのか?」
「いいえ。どうやら、こちらの水が合うたようで、諏訪の女房衆を集めて会合などを開いておりまする」
「それはよかった」
晴信は小刻みに頷く。
その顔を見ながら、信方は不思議な感慨を覚える。
――まことに月日が流れるのは早い。よもや、女房や息子のことを若と話す日が来るとはな。……この機会に、やはり、あのことも訊いておかねばならぬか。
信方は盃を置き、背筋を伸ばす。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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