第四章 万死一生(ばんしいっしょう)
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「はい。気が回らず、失礼いたしました」
麻亜は瓶子(へいじ)を持ち上げ、晴信の盃に注ぐ。
それを干してから、おもむろに話を始める。
「実は童(わらわ)の頃、あまり正月が好きではなかった」
晴信は弱々しく笑う。
「年が明けると初射礼という破魔矢を射る儀式があり、余はそれが得意ではなかった。余には四つ歳下の弟がおり、こ奴がまた優秀で弓箭の腕前も実に大したものだった。父上には弟に劣る腕前をなじられ、上手くなるまで初射礼には参加させぬと言われた。その後、どれほど努力をしても、あまり父上に誉められたことはなかった。そんな想い出が、この時期になると蘇ってくる。まあ、今ではもう正月が苦手ということもないのだがな」
その話を、麻亜は神妙な面持ちで聞いていた。
「今度は、そなたがどのような正月を過ごしてきたのか、聞かせてくれぬか」
晴信に促され、麻亜は幼い頃の楽しかった正月の想い出を話し、物心ついてからは母と二人きりで過ごさねばならなかったことを吐露した。
「……何より、節饗を支度し、寂しそうな顔で父上を待ち続ける母が忘れられませぬ。もちろん、あの方は来てくださりませなんだ」
瞳を潤ませ、麻亜が俯く。
「さようか。では、次に童の頃に楽しかったことを聞かせてくれ」
場が湿らないように、晴信は話の矛先を変える。
二人は思いつくままに話を続け、その分だけ和んでいった。
晴信にとって麻亜の声はまるで音曲を聴くように心地良かった。そのため酒も進み、前回とは違い、ほどよく酔うことができた。
二人きりの節饗は思いの外長く続き、気がつくと亥(い)の刻(午後十時)を過ぎようとしていた。かれこれ二刻(四時間)ほども話をしていたことになる。
短くなった蝋燭(ろうそく)に眼をやり、晴信が呟く。
「すっかり話し込んでしまったな。それに、だいぶ酔うてしもうた。本日はこのぐらいにしておこう。こうして楽しい時を続けていければよいな」
「……はい」
「では、寝所へ戻る」
晴信が立ち上がろうとした刹那、麻亜が声をかける。
「御屋形(おやかた)様……」
「なんであるか?」
「……今宵は……御側に置いていただけませぬか」
切実な口調だった。
晴信はしばし立ち竦(すく)んでいた。
それから、困ったような笑顔で頭を搔く。
「それは、義父や母を失望させぬためか?」
その問いかけが、麻亜の胸に刺さる。
「そのような想いが……ないと申し上げれば……嘘になりまする」
「ならば、止めておけ。無理をする必要はない。二人には、楽しい時を過ごせたと余から伝えておく」
晴信は静かな声で諭した。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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