第四章 万死一生(ばんしいっしょう)2
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
温もりがもたらす安堵(あんど)。そして、至福。それらに包まれ、どれほど寝ただろうか……。
眠りの深海から一気に覚醒の浅瀬へと導かれ、晴信は突然、眼を見開く。熟睡がもたらす爽快な目覚めだった。
だが、瞼を開いた時、腕の中に麻亜の姿はなかった。ただ腕枕をしていたはずの右腕に、微かな痺れだけが残っている。
晴信が光の差し込む方角に首を傾けると、そこにはすでに着替えを済ませた麻亜が微笑を浮かべながら座っていた。
「おはようござりまする」
麻亜が両手をついて頭を下げた。
その姿を眩(まぶ)しげに見ながら、晴信が訊く。
「いま何刻(なんどき)頃か?」
「先ほど日出(にっしゅつ)の鐘が鳴りましたので、卯(う)の正刻(しょうこく/午前六時)頃かと」
「まことか……。だいぶ寝過ごしたかと思うたが、まださような時刻か……」
晴信が上半身を起こし、大きく伸びをしながら呟く。
「……久方ぶりに、よく眠れた。これほど気持ちの良い寝醒めは、このところなかった。心なしか、軆が軽く感じられる。そなたのおかげだ」
「……面映ゆう……ござりまする」
麻亜は恥ずかしそうに俯(うつむ)く。
「御屋形様、お着替えなさりまするか?」
「ああ、そうだな」
「こちらをどうぞ」
麻亜は漆塗りの乱箱(みだればこ)に入れた帷子(かたびら)を差し出す。帯の脇には、真新しい犢鼻褌(たふさぎ)が添えられていた。
――新しい六尺まで用意してくれたのか。
晴信が細やかな気遣いに感心する。
「その前に御軆をお清めになられまするか?」
「ああ、そうしよう」
「では、少々、お待ちくださりませ」
麻亜は淀(よど)みない所作で立ち上がり、室の外に用意してあった支度道具を運び入れる。
湯を張った桶と水盥(みずだらい)。口を漱(すす)ぐための塩と清水。手布と空盥などが、手際よく並べられた。それらを満足げに眺めてから、晴信は寝間着の袖から両腕を抜き、肌脱ぎになる。まずは冷たい水で顔を洗ってから、塩で口中を清め、清水でうがいをした。
その間、麻亜は湯を張った桶に手布を浸し、固く絞ってから渡す。晴信はそれを受け取り、暖かく湿った手布で上半身を拭いた。
「……お背中をお拭きいたしましょうか」
麻亜が躊躇(ためら)いがちに訊く。
「ああ、頼む」
晴信が背を向け、胡座(あぐら)をかいた。
その引き締まった背中を、麻亜が丁寧に拭いていく。それが終わると、膝元に置いていた打乱箱(うちみだりばこ)から塗香(ずこう)入れを取り出す。
「香油をお塗りいたしまする」
「えっ!?……ああ」
晴信が眼を瞑(つぶ)る。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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