よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 この日、諏訪から帰る予定だったが、晴信の心はもはや止めようがなかった。
「さて、少々早いが、仕事に出るとするか。板垣(いたがき)と話をせねばらなぬ」
「御屋形様、お着替えは隣のお室に」
「そなたが支度してくれたのか?」
「先ほど教来石(きょうらいし)殿からお預かりしまして……」
「さようか」
「お手伝いさせていただきまする」
「ああ、頼む」
 晴信は隣室に移り、大紋直垂(だいもんひたたれ)に着替え、腰元に檜扇(ひおうぎ)を差す。
「では、信房(のぶふさ)を呼んでくれ」
「はい」
「ああ、それと……」
 行きかけた麻亜を呼び止める。
「本日も夕餉の支度を頼む」
「はい、畏まりました」
 麻亜は嬉しそうに一礼してから、近習頭(きんじゅうがしら)を呼びに行った。
 すぐに駆け付けた教来石信房に、晴信が命じる。
「少し早いが、板垣と話をしたい。寝ているならば、起こしてくれ」
「御城代ならば、すでに起きておられまする。先ほど一緒に朝餉をいただきました」
「さようか。では、奥の間で」
「承知いたしました」
 教来石信房は信方の処(ところ)へ向かった。
 晴信が待つ奥の間へ入った途端、信方が微かに眉をひそめる。
「……この室、何やら仄(ほの)かに良い匂いがしませぬか?」
 そう呟いた傅役(もりやく)を、晴信が軽く睨む。
「白檀だ。清めに塗香してもろうた」
「ずこう?……ああ、なるほど。これは失礼をば申し上げました。何分にも、洒落事には無知ゆえ。お許しくださりませ」
 主君の返答から信方は麻亜と和(なご)んだことを察する。
「さて、お早いお召しにござるが、いかがなされました?」
「月中の評定始めまでに、色々と調べておきたいことがある。まずは伊賀守(いがのかみ)を呼んでくれぬか」
 晴信の言った評定始めは、今月の十五日に行われ、いわば、武田一門の家臣たちにとって重要な仕事再開の日である。
 この評定において、晴信は当面の方針を決定しなければならない。
「跡部を?」
「さようだ。今後の方針を定めるために、佐久(さく)、小県(ちいさがた)、松本平(まつもとだいら)辺りまでの様子が詳細に知りたい。武蔵(むさし)での関東管領と北条(ほうじょう)の睨み合いが思った以上に長びいている。そのことも含め、いま一度、近隣の諜知(ちょうち)が必要だと考える」
「御意!」
「加えて、高遠(たかとお)城にいる鬼美濃(おにみの)と秋山(あきやま)に下伊那(しもいな)の様子を探り、報告するよう伝えてくれ。あとは、昌頼(まさより)を相模(さがみ)に行かせ、北条家からそれとなく武蔵の状況を探らせたい」
「承知いたしました。して、若はいかがなされまするか?」
「しばらくは諏訪を拠点とし、諜知の報告が集まるのを待つ。火急の件が持ち上がれば、新府へ戻るが、しばらくは諏訪の者たちの様子も見たい」
「わかりました。すぐに動きましょう」
 信方は厳しい面持ちに戻って頷いた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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