よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「……常磐殿の申されることはもっともだが……こればかりは天からの授かりものであり……われらにどうこうできるとは思えぬのだが……」
「いいえ、駿河守殿からも、御屋形様にそれとなく進言していただきとうござりまする」
「……あ、いや……閨(ねや)のことはさすがに……」
「では、弟君はいらぬと?」
「そうは思うておらぬ。確かに、若と信繁様を見ていれば、そなたの申す通りだと思うが」
「ならば、駿河守殿はわれらのお味方になっていただけまするか?」
「もちろん、やぶさかではないが」
「是非、お願いいたしまする」
 常磐は両手をついて深々と頭を下げる。
「では、その上でひとつ、お訊ねしたきことがござりまする」
「……何であろうか?」
「先頃、捨て置けぬ風聞を耳にいたしました。禰津(ねづ)元直(もとなお)殿という御方が武田家に新参なされ、その元直殿が御息女を御屋形様の側室にしてほしいと願い出たと聞いておりまする。それは、まことにござりまするか?」
 その問いに、信方は一瞬、返答に詰まる。
 しかし、観念したように口を開いた。
「確かに、禰津家からは娘を側室に迎えてもらえぬかという願い出はあり申した。元直殿としては、半ば質を出すが如(ごと)く、娘を当家に入れることで忠誠を示し、己が信義の証を立てようという心持ちであったろうと推察いたす。禰津家は古(いにしえ)から小県(ちいさがた)や佐久(さく)を統(す)べてきた滋野(しげの)一統の中でも指折りの名家であり、かの地にこれより覇を唱える当家としては願ってもない申し出であった。まずは、そのような政(まつりごと)絡みの話であることをご理解いただけるか?」
「それは……」
 今度は常磐が口ごもる。
「……理解……いたしました」
「では、その上で話を続けるが、その話を御屋形様は保留なされた。まだ、そのような時期ではないと」
「保留……にござりまするか。お断りではなく?」
「さよう。御屋形様もこの身と同じく、元直殿の覚悟をお汲み取りになったのであろう。無下に断れば、禰津家の面目を潰すことになるゆえ。そこで禰津の娘は当方で預かり、藤乃の下で侍女としての修業をすることになった。まずはそこで仕来(しきた)りなどを覚え、侍女頭として御屋形様のお世話ができるようになれば、改めて話の進展があるやもしれぬし、ないやもしれぬ。先ほども申した通り、これから当家は腰を据えて北信濃へ出て行くと本日の評定始めで決まった。つまり、御屋形様が諏訪に滞在なさることも増え、誰かが身辺のお世話をしなければならぬ。近習(きんじゅう)や小姓たちだけでは至らぬところもあるゆえ、禰津の娘も真剣に修業に取り組んでいる。このことは、隠し立てなく三条の御方様にお伝えくだされ」
「……わかりました」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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