第四章 万死一生(ばんしいっしょう)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「それがしから見ても、御屋形様は三条の御方様を信頼し、大事になされておる。もちろん、御台所としてだけでなく、正室として、母として、もはや離れがたい慈しみを感じておられると思う。それがしも弟君の件は切望しているが、いかんせん、若は天の邪鬼でもあらせられる。周りが囃(はや)し立てれば立てるほど旋毛(つむじ)が曲がり、わざと反対のことをなさったりする。それは、この身が痛感しておるゆえ、今は静かに見守るのが最善ではないかと思う。いかがであろうか」
「……承知いたしました」
「たとえ、側室を迎えたとしても、御屋形様の大切になさるものの序列は揺るがぬと、それがしは信じている。三条の御方様と太郎様はどこまでも別格なのだ。御心配、召されるな。家中の者もみな、さように思うておる。万が一にもないとは思うが、若に余計な迷いが生じたならば、この身が一命を賭してでもお諫(いさ)めいたす。板垣(いたがき)がさように申していたと、三条の御方様へお伝えくだされ」
「……心得ました。お耳を煩わせ、まことに申し訳ござりませぬ」
常磐は再び両手をつき、床に額をつけた。
「わかっていただければ幸いだ。共に、御屋形様と御方様をお支えしよう」
信方は安堵しながら答える。
「……ただ、あとひとつ……あとひとつだけ、お訊ねしとうござりまする」
平伏したまま、常磐が言う。
「えっ!?……何であろうか?」
「禰津家の御息女は、おいくつぐらいにござりまするか?」
「おいくつ?……ああ、歳の頃か」
信方はそらを向きて思案する。
「御裳着(おもぎ)は済ませたとしか聞いておらぬ。さすがに、漢(おとこ)が女人(にょにん)の歳を問うわけにはいかぬからな。ああ……まあ、おそらく、二十には届いておらぬのかもしれぬな。それがしは、そのように見立てたが……」
「さようにござりまするか。重ね重ね有り難うござりまする」
何事もなかったかのように、常磐が面(おもて)を上げた。
それを見た信方が、身震いしそうになる。侍女頭の顔が、泥眼(でいがん)の能面のように凍りついていたからだ。
泥眼の能面は「海士(あま)」という能の演目に用いられ、内臣(うちつおみ)の藤原(ふじわらの)房前(ふささき)のため、龍王に奪われた秘宝の「面向不背珠(めんこうふはいのたま)」を取り戻すべく海中深く潜り、自らの命と引き替えに取り返した海女(あま)を演じるための面である。
海女は宝珠を渡す時に、己こそが房前の母の霊だと明かし、文殊菩薩の導きにより龍女の亡霊となる。法華経の功徳によって救われたことを喜び、それにより女人成仏の奇蹟(きせき)を顕現させた。
やがて、龍女は文殊の智慧(ちえ)で現象の理(ことわり)を悟り、釈迦の前で男子に変身し、成仏してみせたという逸話だった。
変成男子(へんじょうなんし)願、女人成仏願を顕(あらわ)すといわれる泥眼だが、妖気漂う能面であり、見る者を底冷えさせるような凄味を持っていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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