よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「今川との和睦を成したとはいえ、まだまだ駿河(するが)の情勢は予断を許さず、伊豆の備えに兵を割かねばならぬゆえ、北条勢は最大で二万と見ておけばよかろう。ただし、氏康自らが兵を率いているとのこと。おそらく、古河公方殿に直談判でもしようという魂胆なのであろう」
 藤井友忠は冷静な口調でつけ加える。
「して、肝心の関東管領殿は、いかような条件をお付けになるつもりなのであろうか?」
 厩橋衆の山上(やまがみ)氏秀(うじひで)が横合いから訊く。
「その問いには、儂(わし)が答えよう」
 長野業正が話を引き取る。
「先ほど憲政殿に確認したが、『あくまでも北条が武蔵と相模(さがみ)から完全に撤退するまで和睦を認めぬ』という条件は譲らぬそうだ」
 一同が小さくどよめいた。
「相変わらず関東管領殿は手厳しい。されど、北条が一万五千の軍勢ならば、相手はわれら上野の軍勢だけでこと足りるのではないか。勇猛をもって鳴る業正殿の箕輪衆とわれら厩橋の衆がそろえば、軽く蹴散らしてくれようて」
 山上氏秀は長野業正への世辞を言う。
 業正は顎髭をしごきながら満足そうに笑い、一同もつられて笑顔をつくる。
 しかし、上泉秀綱だけは、愛想笑いもしなかった。
 いや、もう一人。末席で気配を殺していた真田幸綱も憮然(ぶぜん)とした面持ちで口唇を結んでいる。
 ――ほとんどの者がすでに戦勝したかのような気分に浸っているが、窮地に陥った鼠(ねずみ)が油断した猫に嚙みつくということもある。ただ、尻尾に飛びつくだけならばよいが、急所に乾坤一擲(けんこんいってき)の反撃をくらえば、巨体の優位が覆ることもある。問題は、北条氏康が直々に出張ってくるということに尽きる。
 幸綱はそう思っていた。
 どうやら、長野業正の隣に座る上泉秀綱も同じことを考えているらしい。
 しかし、この場では、皆が上野の盟主、長野業正に気を使っていた。
 箕輪城の長野家は在原(ありわらの)業平(なりひら)の子孫であるといわれ、この業平は平安朝の時世に三十六歌仙に讚(たた)えられた美男の誉れ高き歌人であり、第五十一代平城(へいぜい)天皇の皇子、阿保(あぼ)親王の子だった。
 それゆえ、長野家は業平の血脈を嗣(つ)ぐ一家として嫡男が「業」の一字を通字(つうじ)している。
 関東管領の山内上杉家の下で上野一揆(いっき)の旗頭となり、長野家の幕紋と同じ檜扇(ひおうぎ)の旗を掲げる箕輪衆は十九家にも及んだ。
  業正は箕輪一帯で上野最大の勢力を誇る軍団を形成し、西上野だけで約二万近くの軍勢を動員する力をもっていた。
 一方、上泉秀綱の大胡(おおご)城を中心とする厩橋衆は、点在する城主を束ねた五千あまりの軍勢であり、桐生(きりゅう)と金山(かなやま)の軍勢を加え、ほぼ一万となっていた。
 しかし、こちらは各地の地頭(じとう)たちの寄合いであり、箕輪衆のような緊密な軍団ではない。それでも、桐生と金山、二人の城主が上泉秀綱を盟主と認めて結束した。
 そして、何よりも秀綱に対する業正の信頼は厚く、二人の結びつきが上野一揆の結束を形作っていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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