よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「もしも、氏康の軍と一戦交えることがあるならば、われらで先陣を賜ってもよいと思うておる。皆の意見はどうか?」
 長野業正は軍扇で太股(ふともも)を叩(たた)きながら座を見回す。
 一同は隣の者と意を確認しあっていた。
 その中で、上泉秀綱は眉一つ動かさず正面を見つめている。
「秀綱殿、御主(おぬし)はいかが思われるか?」
 業正の問いに、秀綱はゆっくりと視線を移す。
「業正殿がさように仰せられるのであれば、それがしには異存なく。先陣ならば迷わず承りましょう」
 きっぱりとした口調で答えた。
「まあ、戦になるか、ならぬかはわからぬが、儂は後のためにも北条にわれらの力を見せておくのがよかろうと思うておる。武蔵の国境(くにざかい)を越えて上野に入れば、どのような目に遭うか、とくと教えておく必要もあろうて。それに河越城を誰が預かるかということも見据えておかねばならぬ」
 業正は己の腹づもりを垣間見せる。
 しかし、「この戦は和睦になる」と読んでいるようだった。
 それでも優位に立っている合戦において上野勢の旗幟(はたのぼり)を見せつけ、わざわざ武蔵まで出向いた何がしかの収穫を得ておこうという戦略である。
 それは北条家が撤退した後、褒賞となる領地割りまでを見据えた老練な思惑のようだ。
「それでは、本日の評定はこれまでとしよう。氏康の和睦申し入れを、憲政殿がどのように処するか、正式な沙汰を待つこととする。触れが廻(まわ)るまで、各々、油断のなきよう頼む」
 長野業正が集まった将たちに散会を言い渡す。
 一同は隣の者と顔を見合わせて頷(うなず)きあった後、それぞれが立ち上がり、長野家の幕内から宿陣へと戻っていく。
 そそくさと評定の場を後にした海野(うんの)棟綱(むねつな)を、真田幸綱が追う。
「棟綱殿、今の評定をいかように思われるか?」
「いかように?」
 海野棟綱は訝(いぶか)しげに真田幸綱を見る。
「……どうということもあるまい。北条氏康が頭を下げに来るという報告であろう。さりとて、何が変わるということでもあるまい」
「いや、氏康が轡(くつわ)を舐めるとは限りませぬ。何かを狙うておるのやもしれませぬぞ。それだけではなく、あの評定の緩みきった雰囲気にござりまする」
「……特段、殺気立たねばならぬこともなかろう。それに、あの場では末の末に追いやられているわれらがいきり立ったところで、何にもなるまい」
「評定だけではありませぬ。ほとんどの陣で毎夜にわたり、軍装を解き、酒盛りが行われている。まるで、もう戦に勝ったかのような緩みよう。これほどだらけきった戦場(いくさば)は初めてにござる。かような中で敵の夜襲にでも遭えば、由々しき事態になりますぞ。棟綱殿から長野殿へ、ご忠告申し上げてはいかがにござるか?」
 確かに幸綱が指摘した通り、山内上杉憲政を総大将とする連合軍には、長きに渡る攻城戦に飽き果てた気配が漂いはじめている。
 寄せ集めの陣内は弛緩した雰囲気に包まれ、長期の滞陣で士気が落ち、規律も乱れ始めていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number