第四章 万死一生(ばんしいっしょう)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「心配には及ばぬ。どこかの陣が夜襲を受けたぐらいで、勝敗がひっくり返ることもあるまい。この戦はどう考えても楽勝であり、本気で一押しすれば、すぐに城は落ちる。ゆえに、酒盛りぐらいで目くじらを立てる必要もあるまい。北条の降参で一刻も早く終わることを願い、無事に吾妻(あがつま)へ帰るだけのことであろう」
「……さようにござるか。ならば、もうこれ以上は何も申しませぬ」
真田幸綱は顔をしかめ、口唇をへの字に結ぶ。
脇で海野の家老、河原(かわら)隆正(たかまさ)が二人の会話に聞き耳を立てていた。
――楽勝の戦い?……われらはここに布陣してから、まだ一遍たりとも敵と刀槍(とうそう)を交えておらぬ。これからが本来の戦いになるのかもしれぬというのに、それを楽勝の戦いと考えるとは油断、慢心に他ならぬ。つまり、どこもかしこも隙だらけということだ。
だが、真田幸綱はその考えを口にしなかった。
その数日後に、一報が駆け巡る。
北条氏康、河越城近くの砂久保(すなくぼ)に着陣。
それ受けて再び箕輪衆の戦評定が開かれる。さすがに北条の本隊が着いたことで、一同にも微(かす)かな緊張が走っていた。
その中で藤井友忠が口火を切る。
「業正殿はいま関東管領殿の陣で協議の最中だ。われらで評定を進めておけとのことだ」
「藤井殿、砂久保の北条勢は、どのぐらいの数であろうか?」
小幡憲重が訊く。
「物見の報によると、八千あまりだということだ」
「えっ、八千?……二万ではないのか?」
憲重が素頓狂な声を上げた。
「いや、確かに一軍で八千余という報告だ」
藤井友忠の冷静な口調に、一同は安堵(あんど)の表情を浮かべる。
「どこかに伏兵がおるのではないか?」
眉をひそめた倉賀野(くらがの)尚行(なおゆき)の問いかけに、再び藤井友忠が答える。
「いや、それらしき報告もない。氏康も砂久保に陣を布(し)いて動かぬままじゃ」
北条勢が布陣した砂久保は、山内上杉憲政の本陣を窺(うかが)うような場所だった。
しかし、その中核に箕輪衆がおり、両翼には古河公方と扇谷上杉の連合軍が控えている。八千の兵で奇襲できるような構えではなかった。
「ならば、一戦交えても楽勝ではないか」
山上氏秀が大声を上げ、張りつめていた評定の空気が吹き飛ぶ。
ほとんどの者が、同じことを思っていた。
「藤井殿。北条は古河公方を通じ、しきりと和睦を嘆願しているようだが、和議の日程はどうなっているのか?」
上泉秀綱が険しい面持ちで訊く。
「和睦など甘いわ。かように大勢が決した戦で何が和睦じゃ。北条の降伏しかなかろう」
山上氏秀がそらを向いて呟(つぶや)く。
「業正殿から聞いたところによると、上杉の総大将はどうやら和睦の申し入れを知らぬ存ぜぬの態度らしい。やはり、和議を引き延ばして条件を吊り上げる腹づもりであろう」
藤井友忠が答えた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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