第四章 万死一生(ばんしいっしょう)4
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
北条からの和議申入れは、古河公方から関東管領へと伝えられている。
しかし、山内上杉憲政はすでに勝負は決したと判断し、わざと答えを保留しているらしい。さらに厳しい条件を加えた後に、和議に持ち込もうという魂胆だった。
素知らぬ振りをする関東管領を見て、古河公方の足利(あしかが)晴氏(はるうじ)も北条からの必死の嘆願を放っているので、絶対の優勢を信じる連合軍の陣中は、早くも戦勝気分に沸き始めていた。
箕輪衆の評定はすぐに終わり、各人は己の陣に戻り、軍装を解いて祝盃の支度をした。
真田幸綱は軍装を解かず、苦い表情で思案に耽(ふけ)る。
そこへ河原隆正がやって来た。
「幸綱殿、評定の時から浮かぬ顔をなされておられるが、何か気になることでもありましたか?」
「いや、特段……」
「思うところがおありならば、忌憚(きたん)なくお聞かせくだされ」
河原隆正が笑みを浮かべて言う。
真田幸綱はふっと息を吐き、顔を上げる。
「もしも、北条に一手あるとすれば奇襲。それも総勢で関東管領の首級(しるし)ひとつだけを狙うような戦い方であろう。皆は八千の兵と侮っておるが、その数で首ひとつに向かえば、誰かの刃が届くやもしれぬ。総大将の首が飛べば、絶対の優勢も吹き飛び、勝敗がひっくり返るかもしれぬ」
「なるほど。幸綱殿は戦勝気分で緩みきった陣中への夜襲を警戒なされていましたか」
「隆正、棟綱殿はそなたに何か命じたか?」
「祝盃の支度をいたせ、と」
「やはり、そうか……。祝盃もよかろう。されど、北条からの夜襲に備え、交代で張り番を立てた方がよい。それと休む際にも、決して軍装を解かぬよう兵たちに伝えよ」
「承知いたしました」
二人はその日から備えに入った。
しかし、真田幸綱の心配とは裏腹に、北条本隊は大きな動きを見せない。
和議申入れを保留された氏康は、上杉勢の眼を少しでも城から引き離すため、小軍勢で物見を出しては、すぐに引揚げるという戦法を繰返した。
そこには河越城内の綱成に援軍到着を知らせる意図があったのかもしれない。籠城している城兵に本隊到着の報が届かなければ、失望のあまり落城してしまう危険がある。いかに大剛勇猛な北条綱成といえども、さすがに限界が近づいているはずだった。
そして、和議の日取りが決まりそうになった頃、ついに真田幸綱の恐れていた事態が起こる。
天文(てんぶん)十五(一五四六)四月二十日、子(ね)の刻(午前零時頃)。月明かりさえ定かではない絹曇りの夜だった。
軍装を解かずにまどろんでいた幸綱の耳に、突然、遠くから陣鐘(じんがね)の音と叫び声が聞こえてくる。続いて、馬のいななきが響き渡り、辺りは騒然とした物音に包まれた。
思わず飛び起きた真田幸綱は辺りを見回すが、敵の姿は見えない。
しかし、咄嗟(とっさ)に「北条方の夜襲だ!」という思いが浮かぶ。物音は山内上杉憲政の陣中の方角から流れてくるようだ。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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