よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 自ら張り番に立っていた河原隆正が血相を変えて駆け込んでくる。
「幸綱殿、総大将の陣中で何やら騒ぎが……」
「いかん。北条の夜襲ならば危ない。すぐに皆を起こして集めねば!」
 幸綱は顔色を失う。
 その間も次第に物音は大きくなり、ついに憲政の陣中らしき方角に火の手が上がる。
「幸綱殿、兵をまとめて救援に向かいまするか?」
 河原隆正が叫び、幸綱の脳裡(のうり)で目まぐるしく思考が巡る。
 ――これが氏康の仕掛けた乾坤一擲の夜襲ならば、総大将の救援は手遅れかもしれぬ。……いったい、どうすればよい?
「まず、棟綱殿を起こし、兵をまとめよ。ばらばらになれば、この闇夜では同士討ちが起きかねぬ」
 真田幸綱は河原隆正に指示してから、素早く兜(かぶと)をつけて朱塗りの槍を手にする。
 ――総大将の陣から火の手が上がったからには、総軍を結集した敵の夜襲であろう。夜陰(やいん)に紛れて背後から本陣を襲ったか?……ならば、城からも兵が打って出るやもしれぬ。寝込みを襲われ、挟撃された軍はひとたまりもない。
 幸綱はざわつく気持ちを鎮め、もう一度辺りを見回す。
 争乱の物音が潮のように満ち引きしながら近づいてくる。
 そこに寝ぼけ眼の海野棟綱と兵をまとめた河原隆正が走ってきた。
「棟綱殿、これは北条の夜襲に違いない! おそらく、総大将の首級を狙うている。どういたしまする? われらだけで救援に向かいまするか?」
 幸綱の問いに、海野棟綱は茫然(ぼうぜん)と立ち尽くす。
「……どうすると……訊かれても」
「この混乱では、同士討ちも起きかねぬ! 早く方針を決めねば!」
 周囲にある箕輪衆の陣内も、すでに大混乱をきたし始めている。
 慌てて鎧(よろい)をつける者、触れを叫んでいる者などでごった返し、足軽どもは何が起こったかわからぬまま、ただ闇雲に走り回っていた。
「……こ、これは、われらの戦ではない。この小勢では、いかんともし難いではないか……。い、いったん退(ひ)いて様子を見るしかなかろう」
「されど、このままでは、またもや負け戦になりまするぞ!」
「……う、海野一統が……負けるわけではなかろう」
「われらは腐っても滋野(しげの)の一統だ! その矜恃(きょうじ)を捨てて退けば、二度と小県(ちいさがた)に返り咲くことはできませぬ!」
「……さようなことを言われても……」
「わかり申した。では、退陣でよろしいということにござりまするな?」
 幸綱は念を押す。
 海野棟綱は固唾(かたず)を吞(の)むように頷く。
「退陣だ! 戦いを避け、一団となって吾妻へ向かえ!」
 真田幸綱は意を決して命じた。
 箕輪衆が闇雲に走り廻っている中、海野一統は素早く陣からの撤退を始める。
 実際、すぐそこまで北条方の攻め手が迫っており、真田幸綱はぎりぎりのところで兵をまとめて敗走した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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