よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 信方が説明を続ける。
「われらは内山城の西にある前山(まえやま)城を足場として迅速に兵を寄せる。外側の曲輪(くるわ)から順に落とし、半月以内に城を落とすつもりだ。それに余りある兵数を出すゆえ、おそらく問題はなかろう。されど、佐久にはひとつだけ読み切れぬ問題が残っている。それが、志賀(しが)城の笠原(かさはら)清繁(きよしげ)だ。この者が素知らぬ振りをするのか、大井貞清に与力(よりき)するのか、今の時点ではまったく読めておらぬ」
 志賀城々主の笠原清繁は佐久の国人(こくじん)衆だが、元は諏訪家の一族である。
 しかし、晴信の諏訪侵攻や長窪城攻めに関しては、一貫して不介入の姿勢を取ってきた。まるで素知らぬ振りをしているようだった。
「前山城の伴野(ともの)光信(みつのぶ)にも訊いたが、志賀城には何の動きもなく、われ関せずの態度らしい。されど、一番の問題は、笠原清繁が西上野の菅原(すがわら)城々主、高田(たかだ)憲頼(のりより)と縁戚関係にあるということであろう。そして、高田憲頼は関東管領の山内上杉憲政の重臣だ。われらが佐久で動こうとすれば、おのずとその動向が関東管領に伝わる。内山城を攻めながらも関東管領の平井城と村上義清(よしきよ)の砥石城の動きには、細心の注意が必要だということである。以上が、こたびの戦の要諦だ」
 信方の言葉を引き取り、晴信が口を開く。
「こたびの戦いは、疾(はや)さが肝要。迅速に内山城を落とし、前山城と合わせて佐久平を挟むように二つの足場を築く。その上で、志賀城の笠原清繁には誘降を持ちかけようと考えているが、それはまだ先の話だ。ここまでで何か訊きたいことはあるか?」
 問いかけられた家臣たちは無言で首を横に振る。
「では、行軍と布陣に関しては、陣場奉行の加賀守(かがのかみ)から説明してもらう」 
「御意!」
 原(はら)昌俊(まさとし)が話を引き取る。
「こたびのは本隊と後詰(ごづめ)を分け、ふたつの経路にて行軍する。本隊は上諏訪の茅野(ちの)から蓼科山(たてしなやま)と天狗岳(てんぐだけ)の間を進み、南から前山城へ入る。後詰は下諏訪から霧ヶ峰(きりがみね)の北西を抜け、長和の長窪城へ入り、そこから小県に物見を出して村上義清の動きに備える。もしも、砥石城に不審な動きがあれば、本隊との間に割って入らねばならぬ。では、これから出師之表(すいしのひょう)を配るゆえ、各々、確認してくれ」
 陣場奉行の命で、持場を示した出師之表が一同に配られた。皆は険しい表情でそれに見入っている。
 晴信が念を押す。  
「くどいようだが、こたびは『疾きこと風の如し』が合言葉だ。武田が城を囲んだ時はこうなるという攻めの妙を見せてやろうではないか!」 
「御意!」
「出陣は来月の三日とする。各々、抜かりなきよう」
 この評定が行われた後、五月三日に御旗楯無(みはたたてなし)の前で戦勝祈願が行われ、晴信は新府を出立する。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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