よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 信方が加藤信邦の処(ところ)へ向かってから間もなく、弟の信繁(のぶしげ)が訪ねてくる。
「兄上、加賀守が倒れたと聞きましたが……」
「ああ、どうやら以前から患っていた労咳が悪化したらしい」
「労咳にござりまするか!?……当人はただの咳気と申していたのに」
 信繁が驚いたように眼を見開く。 
「病いを隠し、無理をしていたようだ。いま思えば、毎年の出陣など、済まぬことをした」
 兄の沈痛な面持ちを見て、弟は事態の重大さを察した。
 それから、最も気になっていた問いを発する。
「小県への出兵は、いかがなされまするか?」
「まだ決めておらぬ。加賀守が抜けた穴は、決して小さくないからな」
「ならば、それがしを是非とも陣にお加え願えませぬか。佐久への出陣では、二度とも留守居役を仰せつけられ、歯痒(はがゆ)い思いをいたしておりました。甘利は出陣しているのに、なにゆえ、それがしが留守居をせねばならぬのでありましょうや」
 信繁は真剣な面持ちで問いかける。
 この弟は今年で齢二十四になり、凛々(りり)しい若武者に成長していた。
「新府の守りは、重要な役目だ。そなたにしか託せぬ」
「されど、加賀守が抜けた穴を埋めるためにも、こたびはそれがしにも出陣をお申し付けくださりませ。お願いいたしまする」
 信繁は深々と頭を下げる。
 その必死さは晴信にも伝わってきた。
「予定どおり出陣するかどうかも含め、考えておく。されど、あまり焦るな。そなたが惣領(そうりょう)代行の立場であることを忘れるな」
「……はい。承知いたしました」
「子細は十八日に行われる具足始めの評定にて決めよう。それまでには、答えを用意しておく」
 晴信は決然と言い放った。
 それから丸二日、思案に思案を重ねる。そして、具足始めの評定を迎えた。
 その冒頭で、まずは己の思いを述べる。
「皆も知っての通り、先日、加賀守が病いに臥した。正直に申せば、容態は芳しくなく、来月に予定していた小県への出陣は無理であろう。かの者はわが軍にとって掛け替えのない陣馬奉行であり、余がその優れた才と能を頼り、無理な出陣を重ねさせてしまったのやもしれぬ。まことに済まぬことをした」
 晴信の言葉を聞き、一同が項垂(うなだ)れる。
「余にとっても加賀守がおらぬ出陣は考え難く、一度はこたびの出陣を延期しようかと思うた。されど、加賀守が薬師を通じて思いを伝えてきた。それがしのせいで武田家の歩みを止めることなきよう、お願いいたしまする、と。それを聞き、余も決心した。加賀守の思いも汲(く)み、予定どおり、二月の頭には小県へ出兵したいと考えておる。皆は、いかように考えるか、この評定で聞かせてくれ。異議のある者は遠慮せずに申し出てもらいたい」
 晴信は一同を見廻す。
 しばしの静寂が、評定の場を包む。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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